シーホースとナッツ

長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育て中に考えたこと、の保管場所。

3歳児の頭の中。その2

(前回の記事→ 3歳児の頭の中。その1

この前の連休最終日、長女きなこの謎な行動の
意外な理由を知った私たち。それを受けて
今の状況で出来ること・出来ないことを
改めて確認し合い、明日からまた頑張ろうと
決意を新たにした、次の日の朝のことでした。

前の晩にしっかり話を聞いてあげたからか、
きなこはいつも手こずる布団からも威勢よく
起きてきて、ねこあつめのおかげもあって
朝食も遅れることなく食べ終わり、
幼稚園へ行く準備はいつになくスムーズに
進んでいたはずでした。

そのねこあつめで、手持ちの金額が足りず
「買えるものが何もない」という事態から、
雲行きは急激に悪化を始めます。
別にそのこと自体は珍しいことではなく
連休中にも何度か同じ状況は発生していて、
でもこれまでは多少うだうだ言いながらも
ちゃんとゲームを終わらせられていました。
それがこの日はちっとも気持ちが収まらない。
何を言っても「何か買いたいの!」と大荒れ。
鬼の形相でパンチキックが飛んできます。
こちらも休み明けで、会社は朝の会議もあり
遅刻ができません。タイムリミットがある中で
ついイライラを抑えきれず、悪い方に本人を
刺激するような態度をとってしまいました。
前の晩に「子どもの声に耳を傾けよう」と
思った、舌の根も乾かぬうちに。

結果、怒って寝室に走ったきなこを追うと、
次に飛び出したのは「幼稚園行きたくない」!
この辺でやばい雰囲気を感じ、冷静になって
買えなかったことへの遺憾の意と、
配慮に欠ける言動をしたことへの
謝罪の姿勢を示すも、やはり鎮まる気配なし。
事態を心配した妻が顔を出したものの
「ママは帰って!」。
ためしに強硬手段で先に着替えを始めて
一人で出発するような素振りを見せると、
まさに逆効果。大泣きされてしまいます。
前に上手くいった「どんなことがイヤなの?」
と聞きいてみる戦法も、全く効果なし。
ひたすら「幼稚園ヤダ」の一点張りです。
なおこの辺りで、つられて泣き出すあんこ。

既に朝の会議への遅刻は確定していましたが、
とにかく何とか事態を収めないといけないので
泣き喚くきなこを抱っこしてリビングに戻り、
とにかく落ち着いてもらえるまで待ちました。
妻が気を遣って「もう私が送っていくから」
「休ませるしかないかねぇ」と声をかけて
くれましたが、それが本当に最終手段で、
可能な限り回避すべきことであるのは
何より妻自身の顔色が物語っていました。
しかしそこで、もはや僕らの対応では
どうにもできないような驚きの発言が、
きなこの口から飛び出したのです。

ようやく少し落ち着いてきた所を見計らって
改めて会話を試みてみたところ、
「どうしても幼稚園休みたいの?」
「…うん」
「何か恐いことでもあるの?」
「…うん」
「どんなことが恐いの?」
「…だって、Aちゃんが意地悪してくるから」
「!!?」
Aちゃんとは、以前きなこが「一番の仲良し」
だと言っていた、クラスの女の子です。
そういえば秋頃には登園中に一度だけ、
「今はAちゃんはBちゃんが好きなの」と
最近はあまり遊んでいないことを匂わす発言を
していたことがありましたが、まさかそんな?

よくよく聞いてみると、Aちゃんからは
「パンチされた」り
「座ってたら後ろから蹴られた」り
していたそうで、そういうことさえなければ
幼稚園には行ける、とのことでした。
そこまで聞いてもはや「行きなさい」なんて
とても言えるわけもなく、とにかく本人には
話してくれてありがとうということを伝え、
今日は休んで担任の先生にも電話で伝えて
サポートをお願いしようということになり、
きなこもそのことに同意してくれたので
(というより是非電話をしてほしいと)
結局この日は妻に、何の準備もないままでの
2人のお世話と電話連絡の負担を強いつつ、
僕は20分遅れで会社に向かったのでした。

その後の先生への電話、さらに翌日のお迎えで
妻が直接会話して聞いたところによると、
「確かにきなことAちゃんは、一時期一番の
仲良しだった」
「Aちゃんに限らず、まだ気持ちを上手に
伝えられない子も多く、Aちゃんも別に
意地悪をしているつもりはなかったようだ」
「BちゃんとAちゃんは幼稚園に入る前からの
友達で、今はきなこも他の子と遊ぶようになり
Aちゃんは前のようにBちゃんと遊んでいる」
ということがわかりました。

結局まだまだ3歳児、上手に言葉で表現できず
おかしなやりとりや衝突が生まれることも
現場では度々起きていることのようです。
その都度先生が仲裁したりサポートしたりして
ちょっとずつ人間関係ができていっている、
という話は確かに以前父母会でも聞きました。

きなこも、普段の会話はかなりスムーズに
できるようになってきているものの、それも
あくまで本人の持つボキャブラリーの中での
やりとりに過ぎません。
特に「気持ち」のような実体のないものは
言葉で置き換えるのが難しいだろうし、
自分の中の感情を言い表す言葉を知らなければ
表現することはできないわけです。
そこを大人が、代わりに翻訳するつもりで
言葉にしてあげる作業が必要だというのは、
それこそイヤイヤ期の頃から感じていた
ことでした。
まだまだ表現力が未熟な分、こちらが根気よく
子どもの考えていることや感じていることを
理解する努力をしなければいけないのだと、
前の出来事に続いてつくづく思い知らされたの
でした。

さて先ほど「お迎え」と書いた通り、きなこも
翌日には無事に登園することができました。
先生がさっそく直接話を聞いてくれたそうで、
ただそれに関して本人は
「ちょっとだけね。」と言っていたし、夜には
「幼稚園で誰が助けてくれるの?」
「先生だよ~」
という会話もしているので、果たしてどれだけ
本人の中でのわだかまりが解消されているかは
わかりませんが、とにかくこちらとしては
「何か嫌なことがあったら聞くからね。」と
伝え続けて見守るしかないのかなと思います。

友達関係のトラブルなんて、まあいずれは
起こるにしてもまさか3歳で早くも…とは
我々も若干浮き足立った所がありましたが、
こういうことを経験してこちらもスキルを
身に付けていくことになるのでしょう。
先ほど「表現力が未熟」と書きましたが、
実際今回のことに関しても相手の子の言い分も
訊いたわけじゃないし、きなこがどこまで
正確に起こったことを説明できているかも
定かではありません。
でも少なくとも、そこは子どもの言うことを
信じるという前提で接することが
大切なのだろうと思います。そうでなければ、
子どもの信頼を得ることなどできません。
またそれに関して妻が、
本人が「イヤだと感じた」、そのこと自体は
紛れもなく事実だ、と言っていました。
本当にその通りだと思います。

いくら表現力が未熟だからといっても、
感じることや気持ちの部分は
大人と何ら変わるものではありません。
ただそれを置き換える言葉を知らないだけで、
子どもは子どもでいろんなことを感じたり、
いろんな感情を持って生きているはずです。
そのことを忘れずに、これからも子ども達と
きちんと向き合っていこうと思った、
今回の濃い数日間の出来事でした。

3歳児の頭の中。その1

相変わらず子どもの世話以外、これといって
何もすることなく過ぎた3連休、最終日の夜。
久しぶりに妻と深夜の会議をしました。

これまでも2人の間で何か問題が生じるごとに
自然発生的に話し合いの場が持たれ、
それによって幾度となく軌道修正しながら
ここまでやってきた我々でしたが、気づけば
あんこが生まれてからはそれが一度もできて
いませんでした。

今回きっかけになったのは、ここのところ続く
きなこのあんこに対するおちょけた態度。
要するに「ちょっかいを出す」という感じで、
手荒く体を触ったり、バカにしたような声で
名前を呼んだりと、そんなことを1日の間に
何度もやるので、それが妻にとって大きな
イライラの素になってしまっていました。
そんなきなこの謎の行動の理由がわかったよ、
というのが話の始まりでした。

ただ実は本題はそのことではなくて、
あんこが生まれて以来、子ども2人の面倒を
同時に見なければいけない妻のストレスは
いわば常に表面張力ギリギリの状態で、
それがきなこに向かってしまっているのが
見ていて痛々しいほどだったので、日頃から
何とかしたいと僕が思っていたからでした。

2人目の子どもが生まれる時というのは、
もう宿命なのかもしれませんが
やはり上の子がかなり不安定になります。
これまで独り占めできていた母親がすっかり
下の子の世話にかかりきりになるわけで、
そんなの心穏やかでいられるはずありません。
加えてあんこの繰り返される泣き声には
きなこも相当ストレスを感じているようで、
そのせいもあってか問題行動も多くなり
また妻にイライラが加算される状況です。

そんな一触即発な様子の2人を見て
また僕がいたたまれない気持ちになり、
何とか妻の負担を少しでも軽減しようと
きなこの相手や家事を買って出るものの、
結果こなさないといけない作業に忙殺され
余裕がなくなって今度は僕がイライラ、
僕が不機嫌になるのを嫌がる妻が
気遣いを僕の方に向けることでまたまた
きなこを気遣う余裕がなくなりイライラ…
という、悪循環というかむしろ家族全員が
それぞれにストレスを回し合っているような
あまり良くない日々が続いていたのでした。

今回の話し合いで、その状況をお互いが
再確認し合い、そもそも圧倒的にリソースが
足りてない前提がある以上、ある程度は
「しょうがない」と思って取り組もうという、
思えばやる前からわかっていたことを
改めて思い出すような結果になりました。
できないことはできないと割り切って、
できなかったこともできなかったからと
悔やむことなく、受け入れる。
あんこが生まれる前には
「じゃなきゃ絶対無理だよね」と
わかったつもりになっていたことが、
何となくここへ来て一番大変な時期を過ぎ、
もうちょっとこなせるような気分に
なっていたのかもしれません。

子ども達には悪いけど、我々にできることは
これで精一杯だし、もう毎日が修羅場だし、
親として毎日ニコニコ笑ってこなせるような
精神的余裕などどこにもない。それが現実。
せめて家族全員が健康で、子ども2人が
飢えることなく育っていけるぐらいが
今の僕らにできる精一杯なのだと自覚して、
もうしばらく持ちこたえていくしか
ないんだろうと思います。
それを思い出せただけでも非常に有意義な
話し合いでした。

そうそう、話のきっかけになった
きなこの「おちょける」行動の理由。
実はこれまでにも、何度か本人に
「どうしてそういう風にするの?」と
聞いてみたことがあるのですが、ただ
「やりたい気分だったの!」という
最近本人の中で大流行しているフレーズが
返ってくるばかりで、あまりはっきりは
わからないまままでした。
それがその日の夜、寝かし付けをしながら
ふと「もしかして笑わせようと思ったの?」と
聞いてみると、そうだと。

それで思い出したのが、これまでに何度か
きなこが目の前でおどけてみせた時に起きた
あんこが大笑いする、という出来事。
どうやら本人は、それを再現しようと
していたようなのです。
思い返してみると、あんこが寝覚めにワッと
泣き出した時などにも、さっと駆け寄って
そんな感じで乱暴にちょっかいを出したり
変な声掛けをしていたことがありました。
もちろんそんなことをしても逆効果ですが、
でも本人なりには泣いてしまったあんこを
何とかあやして笑ってもらおう、という
意図があったようなのです。

そのことがわかって、
「そっか。喜んでほしかったんだね」
と聞くと、再び深くうなずくきなこ。
「優しいね、ありがとうね。」と言うと
ものすごく嬉しそうな顔になりました。
繰り返される意味不明なおちょけた言動は、
3歳児の頭で考えた、妹思いの行動だったと
このとき初めてわかったのでした。

我々の2人のリソースは限られていて、
いつもニコニコしていたり希望を叶えて
あげたりする余裕などないのが現実です。
でもせめて、子どもの声に耳を傾けること、
子どもとの信頼を築いていくことだけは、
たとえいくら部屋が散らかっていようとも
いくら毎日同じような食事になろうとも
さぼっちゃいけないな、と思わされた
その日の出来事になりました。

そんなことがあった次の日の朝、
まさかの事件が勃発するのですが、
それはまた次の機会で。
続きます。

男性の育児参加は女性差別解消とセットで

■「イクメン」は根付いたか

イクメン」という言葉も広まった昨今、
男性有名人などからも育児に積極的に関わろう
という動きが数多く見られるようになり、
日本全体でも着実に育児に関わる男性の数は
増えているのだろうと思います。
若いうちから育児に関心を持つ男性が
多くなってきていることももちろん、
これまで一切関わることなく生きてきた男性が
何かのきっかけで変化してくれているのだと
すれば、それは喜ばしいことと思います。

ただ、そのような流れの中で、1つだけ
気になっていることがあります。
それは、男性の皆さんが一体「何のために」
育児に参加するようになっているか、
その理由の部分。

たとえば「イクメンプロジェクト」の活動は、
ムーブメントそのものの盛り上がりによって
参加者を増やし、潜在的な男性の行動を
喚起しようとしているように見えました。
その為にはまず「盛り上がること」が最優先で
「何のために」の部分はある程度端に置かれ、
・かっこいいから
・とにかく皆がやってるから
・それが時代のスタンダードだから
というイメージを先行させていく
取り組みのように感じられました。

実際その波に乗って、意識を変化させていった
男性も多いのだろうと思います。
そして今も一生懸命育児に邁進している男性も
きっとたくさんいるんだろうと思います。
しかし、その「何のために」が抜け落ちたまま
育児に取り組んでしまったことで、
その後「やってみたけど続かなかった」という
男性もあるいは出てきているのではないか、
という心配があるのです。

・かっこいいから
というのは、いわば今までの男性の価値観を
そのまま踏襲するものです。
つまりその方向で押し進めていくことは、
・モテるから
・人より上位に立てるから
・そっちの方が男らしいから
というように、元々男性の中にある
良いとされる価値観の延長に
ただ「育児」を持ってきただけ、ということに
なりかねないのではないか。

男性自身も、もしそのノリのままで
特にこれまでの自分と向き合うこともせず、
既存の価値観にのっとって行動だけを
変えようとしたとしても、やはり長続きは
しないのではないかと危惧しています。
「かっこいいから」という理由で始めたことは
「かっこ悪いから」という理由でやめてしまう
可能性が高いと思うからです。

実際は育児なんて地味で単調な作業の連続で、
全くこちらの思い通りになんかならなくて、
何の成果も上がらないように感じられること
ばかりです。かっこいい訳がないのです。
さらに、小さな頃から周りに
家事・育児の役割を担うことを期待され、
知識も技術も多くの蓄積がある妻に対して、
付け焼刃で始めたばかりの夫のそれが
そうそう上回っているはずもなく、
当然家庭内でのスキルの差は歴然です。
それを受け入れられない男にとってその状況は
やっぱりかっこいい訳がないのです。

育児で「かっこいいから」を理由にするのは、
現実には相当無理のある切り口だと思います。

■男性の差別意識はある前提で

そうやって考えていくと、思い至るのは
男性が持続的に育児に取り組む為には、
その前にまず自身の男性としての価値観と
向き合うことから始める必要が
あるのではないか?ということです。

その人に備わった男性としての価値観、
中でも特に「女性への差別意識」です。

以前、男性の育児参加を推進する取り組みを
している方が、「女性が言ってもなかなか
聞いてもらえないことも、同性からの声だと
意外にすんなり耳を傾けてもらえる」という
発言をされていたのを見たことがあります。
なぜ、そのようなことが起こるのか。
それは男性の側に
「女性の声は聞く必要がない」
「女性の言っていることは聞きたくない」
という意識があるからではないのか。
話の内容云々以前に耳を塞いでしまうのは、
そもそも「誰が発言しているか」によって
対応を変えているということであり、
それが即ち「差別意識」ではないのかと
思うのです。

文献を見る限り、確かに日本には古くから
男尊女卑の価値観が存在していました。
中でも高度成長期には、男性を賃労働、
女性を家庭での仕事に専念させることで
効率を高めようとした流れがあり、
それによって「外の仕事は男が担うもの、
家の仕事は女のもの」という考え方が
強化されていった歴史があるようです。

今もその考えは残っていて、多くの男性には
女性を自分より下に見る意識とともに、
女性が担ってきた仕事、つまり家事や育児は
自分達の仕事より劣る、という考えが
なお根強く身についていると思われます。
もちろん、それはその人自身の責任でも
何でもなく、社会全体がそのような価値観を
子どものころから押し付け、植えつけてきた
結果として、歴史的事実としてそうなのだろう
というだけの話です。

そして、男性にはそういう意識が自分の中に
あるという認識すらない人もいるでしょう。
生まれた時からそうなっていて、
だからといって別に何の不都合もなく、
周りを見てもその考えに疑問を抱かせる
ようなものも何もない状態であれば、
わざわざ「自分は差別をしている」なんて
意識する必要もきっかけもないと思います。
というより「かっこいい」に代表される
「男らしさ」の中に、そもそも女性への蔑視が
含まれてしまっている以上、むしろ
「男らしくあれ」という教えに忠実な人ほど
その意識が体の中に自然に備わって
いるのではないか、と思えるほどです。

だからといって、そんな感覚を持つ男性が
そのまま「ありのまま」の状態で
育児に手を出すのは、やっぱり不安です。
それは男性自身にとってというより、
育児の分野そのものにとってもです。

■差別意識から解放されると

もしこのまま男性が、「かっこいいから」
「モテるから」「上位に立てるから」という
旧来の「男らしさ」に疑問を持つこともなく
育児に参加するようになっていくと、
どんなことになるのでしょうか。

仮にそういう男性がどんどん入ってきて、
「こんなのおかしいよ」
「もっとこうできるだろうよ」
「俺達が変えてやるよ」
と強い力でどんどん育児の現場や周辺の環境を
変えていくような流れができたとして、
果たしてその末に出来上がるのは
本当に誰にとっても素晴らしいものなのか。
「男だけに都合の良い育児環境」に、
なってしまいやしないだろうか。

考えすぎかもしれませんが、
今の日本において、政治やビジネスの世界は
完全に男性中心で回っています。
そこへ「子育ての世界もかっこいいぞ」という
イメージをただ作り上げることで、
そこすらも男が中心になって回していく世界に
なってしまわない保障はどこにもないのです。

相変わらず女性が置いてきぼりの、
ただ活動のフィールドが変わっただけの
「男性中心の社会」を作らせないためにも、
育児に入ってくる男性の価値観をきちんと
見極めていくことは必要だと思います。

そして逆に考えれば、もしその人の内にある
差別意識を捨て去ることができたならば、
現に女性中心で取り組まれている育児の世界に
入っていくことへの抵抗感もなくなり、
「かっこいい」にこだわる必要もなくなり、
女性達の言葉が素直に聞けるようになり、
「これは自分の仕事じゃない」といちいち
悩む必要もなくなり、誰よりその人自身が
楽になれる…かもしれない、そんな可能性が
開けてくるのではないかと思うのです。

そうなれば、純粋に子どもの育ちに目を向け
られるようになるだろうし、男女で協力して
問題解決に当たれるようにもなるだろうし、
そもそも「かっこいいかどうか」なんてことを
いちいち理由付けする必要もなくなる。
女性への差別が良くないことは
今さら言うまでもないとして、もっと言うと
「男らしさ」についても育児をする上では
正直「邪魔なもの」でしかないのではないか、
ということになります。

ということで今まさに育児に関わっている
男性の皆さん、
「妻にやり方を指摘されると何かムカつく」
と感じていませんか?
これから育児をやってみようかなと思っている
男性の皆さん、
「こんなもん自分なら余裕でできるはずだ」
と感じていませんか?
はたまた現時点では育児に全く興味のない
男性の皆さん、
「これはそもそも自分のやる仕事ではない」
と感じていませんか?
そういうような感覚があるとしたら、
まず自身の中に女性そのものに対する
差別意識がないかどうか、いま一度向き合って
考えてみてほしいと思います。
そうして自分の内面に気づくことができたら、
それは本当に今の自分に必要なものかどうか、
仮にそれを捨て去ったら一体どうなるのか、
想像してみてほしいと思います。

■社会全体で取り組む問題として

とはいえ、既に自覚できないほど体の中に
差別意識が染み付いている状態で、
そう簡単に考えを変えることなど
できるはずがないのもまた現実と思います。
また男性に限らず、日本人全般に見られる
自尊感情の低さ、「基本的自己肯定感」の
形成されてなさを考えると、
これまでの自分と向き合うという行為は
今以上に自らを否定することにもつながり、
変化に対する恐怖が先に立ってしまう人も
きっと多いのだろうと想像できます。

だからこそこのことを、社会全体が
ちゃんと考えなければならないと思うのです。
社会の構造が、男性の差別意識を生み出した。
だとすればこの問題に取り組み、
解決していく責任は社会にあると思います。
決して男性だけの個人的な問題にしないこと、
そしてもちろんそんな夫を持つ妻に
全てを押し付けて済ませるようなことをせず、
社会問題としてきちんと全員が
目を向けることこそが、第一歩だと考えます。

ここで書いていることは全て、何の専門的な
知識もないただの素人の想像なので、具体的に
「こうすれば差別はやめられる」というような
素敵な解決策を提示できる訳ではありません。
でもきっとどこかできちんと、男性の女性への
差別を生み出す社会的メカニズムについて、
学術的な研究がなされているはずです。
その取り組みがもっと進み、実態が解明され、
対応策も確立され、世間に周知されていって、
それが一人一人の心に根付いていくことが
きっと問題解決への道すじなのでしょう。
我々にできるのは、その後押しをすること。
まずそれが社会全体で解決すべき問題なのだと
認識してもらうために、一人一人が声を
上げていくことなのだろうと思います。

「差別は、する側の問題である」
という話を先日聞きました。
その大前提を忘れずに、
かといって誰かのせいにするのではなく、
でも問題はしっかりと解決されるように、
前向きで建設的な議論と取り組みが
なされていくことを願います。

■選択肢の多い社会になるために

私個人は、男性にもっともっと育児に
関わってほしいと思っています。

それは、現実に育児の現場の人手不足、
つまり育児は母親が一人でこなせるような
生易しいものじゃないという実感もあるし、
一人ではなく多様な人格が関わることが
子どもの育ちにとっても母親の精神衛生に
とっても、良い影響があるだろうという
思いがあるのもさることながら、それ以上に
今のような母親にばかり育児の責任を
押し付ける社会であり続ける限り、
女性が一人一人の自由な生き方を
選択することがかなわないからです。

そして同時に、それは男性にとってもやはり
「育児に関わる権利を剥奪されている社会」
でもある訳です。
ただひたすら働き続けること以外に、
人生の選択肢がないこの社会が嫌なのです。
もう少しバランスよくしたいのです。

今までどおり仕事に専念したい人は変わらず
そう生きられるような、だけど仕事よりも
家のことや子育てにもっと関わりたい人も
同じようにそう生きられるような、
そういう社会であってほしいのです。

だから別に男性に、無理をしてまで
育児をやれというつもりはありません。
むしろ、「俺は育児なんかやりたくない」も、
「男らしさにこだわりたい」も、
胸を張って言ってもらえたらと思います。
男も女も、やりたい人がやりたいことを
やれるのが一番いい。
もちろん現実にはそんなことできっこないのを
わかった上で、でもそれを理想形にして、
じゃあ現実にはどこに落としどころを
持っていけばいいんだろう、そんなふうに
考える流れであってほしい。
誰かが得して誰かが損をするのを、
前提にする世の中であってほしくない。
そういうことで、男性の育児参加も
進んでくれたらと思っています。


最後に、ここからはもう理屈でなく感情で
と断っておきますが、
せっかく縁あって夫婦になって、
しかも子どもまで持つ選択をしたのなら、
やっぱり二人で密にコミュニケーションを
取ってもらいたいし、
互いに協力し合う体勢を作ってもらいたいし、
対等なパートナーシップを築いてもらいたい。

夫だって言うんなら、目の前の妻が何を考え、
どんなことに悩んでいるか、興味持とうよ。
もし妻が死ぬほど苦しんでるなら、
つべこべ言ってないで、動こうよ。
何のために夫婦やってんだ。
好きだからじゃないのかよ。
かっこ悪いくらい何だよ。我慢しろよ。

って、思います。

一旦はおぼえておくべき「ルール」

最近のきなこにとっての幼稚園は、まだまだ
「楽しいもの」にまではなっていないのか
反動で週末のテンションがすごいですが、
ただ少なくとも「行かなきゃいけないもの」
としては受け入れられるようになったらしく、
朝もさほど困ることはなくなりました。

逆に、毎日のように新しい歌を覚えてきたり
栄養のことについて教わってきたりと
なかなか我々だけでは対応しきれない
いろいろな新しいことを吸収してくれるので、
やっぱり何だかんだ言いつつ
そういう場に行かせてもらえていることは
助かるなぁと感じています。

そんな中、この土日にきなこは家で
「じゃんけん」のルールをおぼえました。
これまでも「じゃんけん」という名前と
グー・チョキ・パーというものがあること
くらいは認識していましたが、今回改めて
何がどれより強いのか、「あいこ」の存在、
また一度出した手は変えられないことなど、
勝敗が決するまでの一連の流れと
詳細なルールを理解しました。
そして本人も楽しさを実感できたようで、
今日も「じゃんけんやろう」というと
その度に喜んで付き合ってくれました。

これは単なる「遊び」としてのルールを
おぼえた、というだけの一例ですが
彼女はこれから先、本当にいろんなことを
社会のルールとしておぼえていかなければ
なりません。
それはもう既に身についている生活習慣や
交通ルール、そして今まさにおぼえつつある
集団生活での決まりごとなど、様々な分野で
パッとは思いつかないくらいの膨大な数を
長い年月かけて理解していくことになります。

そんなにたくさんのルールが一体
何のためにあるかといえば、それはおそらく
この「社会」という共同体において、
それぞれの人がお互いストレスなく
円滑に過ごしていけるようにするため。
あらかじめそれらの決めごとを、相互に
理解しているという前提があるからこそ、
道路でもお店でも幼稚園でも、困ることなく
スムーズに動くことができるのです。
だからこそ、こんなに苦労してあれやこれやの
ルールを身に着ける必要があるのです。

正直、中には「そのルールおかしいだろ」
というものもきっとあるでしょう。
例えばトイレの案内マークはなぜ、
男性が青で女性が赤なのか。
そんなのはイメージの押し付けじゃないかと。
でも、日本のどこに行ってもその色分けが
なされていることで、一瞬で自分の入りたい
トイレを認識することができるし、
そこで不要に脳を働かせて悩まなくて済む。
まずはとにかく「そういうルールがある」
ということを知っておくことが重要で、
さらにそれが何のどんな目的で作られて
いるものなのか、そこまでわかってくれば
案外納得できるものは多いのではと思います。

でもそこまでわかった上で、なお本人が
「そのルールはおかしい」と思うのであれば
それはこちらも止めません。
誰かを傷つけたり自分自身が危険に遭うような
ことでない限り、そこは本人の判断において
反抗なり無視なりすればよいと思います。
むしろ多少のリスクくらいなら、
こちらも親として一緒に負うつもりです。

そういえば本人は最近ピンクが大好きで、
ちょっと前まで好きだった黄色から
すっかり興味が移ってきています。
これも、世の中にこれだけ女の子向けのモノが
「ピンク」を中心として提供されている中、
一度は通る道なのかもしれません。
一旦「女の子向けのはピンクである」という
今の日本でのルールを本人の中で通過させ
噛み砕いた上で、「でもやっぱり私は
こっちの色が好きだからこの色を選ぶ」
という所まで行けたなら、自信を持って
その色を選んでもらえたらと思います。

というよりむしろ、普段から
「らしさの押し付け」に関しては
非常に敏感な我々夫婦なので、逆に本人が
ベタな色を選びたいと言っているのに対して
「こっちの色の方がいいのに」などと誘導して
しまわないよう気をつけたいと思います。

先日の反省と、これからのこと

もはや恒例となった、きなこ→妻→自分と
回ってきた風邪を発症した金曜日の夜のこと。
いつものようにタイムリミットギリギリまで
仕事が終わらなかったので、コンビニで買った
パンとおにぎりを駅に着くまでの間に食べ、
乗り換えの電車に間に合うように
文字通りホームからホームまでダッシュをし、
家に着いたらすぐきなこをお風呂に入れ、
帰りが遅くなるのに比例して激しくなる
きなこの「私と遊べ欲求」に応えるべく
寝る時間直前までヒコーキ遊びをしたり
おんぶしたまま部屋中を走りまわったりして、
ようやく寝かしつけに入るやリビングに戻り
部屋中に散らかったおもちゃを片付けながら、
「やばい!このままだと明日も明後日も確実に
何もいいことないし、気持ちがやばい!」と、
どうにかして今の状況をポジティブにとらえて
ふさぎ気味の自分への励みにせねば!と感じ
その結果飛び出したツイートがこちら。


そんなやけくそ気味な意図があったとはいえ、
このツイートを見るであろう「日々育児の
つらさに苦しむ・苦しんだ方々」への配慮が
まったく欠けていたことは間違いありません。
しかも、過去に自分自身で何度も
パパがママより楽な理由…?
「いいとこ取り育児」を担う身として
こんなことを書いておきながら、
気楽な男親としての己の立場も考えず
あまりにも呑気な発言をしてしまったことは
本当に反省の限りです。

翌朝、妻ともこの件をしっかり話し合って
改めていろいろなことが整理できましたので、
今回自分への戒めの意味も込めて
「育児に当たる上での男女の立場の差」
についてまとめてみたいと思います。

<1>選択の余地の有無
現状の日本において、育児というのは
男は「やりたい」と思って参加するもので、
女は「やるのが当たり前」とされるものです。
仮に男性個人が「自分もやるのが当たり前」と
小さな頃から思って生きてきたとしても、
社会的にみればまだまだ男性にとって育児は
自ら選択して取り組むことができるもので、
女性に比べれば遥かに自由が効く立場です。
そのくらいのスタンスで取り組めるならば、
自ずとポジティブなものにもできるはずです。

それに対して、選択の余地もなく社会全体から
「やって当たり前」とされている女性にとって
みれば、言わば自由を奪われた状態で、
しかも多くの場合子どもの成長に関わる責任を
一手に背負わされ、自分の子どもが何か問題を
起こしたり、育児することから逃げ出したり、
子どもを持ちたくないなどと言おうものなら
世間からかさにかかって責められる状況。
その重圧の中で、楽しむなんていう余裕など
持てるべくもなく取り組むことになるわけで、
それをポジティブにとらえろという方が
無茶な話だろうと思います。

<2>合格点の差
「やって当たり前」とされているということは
それだけ求められる水準も高くなるはずで、
女性にとっての育児の「合格点」は多くの場合
男性の考えるそれよりも、遥かに高い所に
設定されてしまっていると思われます。
対して男性にとってみれば育児は
未だに「イクメン、かっこいい」なんてことを
その辺でやっているレベルですので、
ちょっと取り組めばすぐ合格点に到達します。
おのずと、それより更にやった分というのは
全てが「積み増し」になりますので、
本人にとっても社会から見ても、評価として
加点されていくことになるわけです。
いくらやってもマイナスからしか評価されない
女性の育児とは、比較にならない扱いです。

<3>受け継がれる内圧
これは妻から聞いた話なのですが、
そんな社会からの圧力・評価もさることながら
女性が「自分の中での子育ての基準」を
設ける上で、何よりもまず指標にするのが
「自分の母親」なのではないか、という点。
最も身近で見にしてきた母親の育児のやり方が
その人にとっての基準になり、
また母親の持っていた「理想の母親像」が
自身の認識に影響を与える、という傾向は
確かにあるだろうなと思います。

つまり上の世代が家事も育児も全て背負わされ
マイナスの評価しか与えられない中にあっても
なお高い理想を設定し、それをクリアしてきた
母親のもとで育った人ほど、同じように
高い基準点を設けざるを得なくなり、
内面的にも責める気持ちが強くなってしまう。
翻って、そのような外圧・内圧の一切ない
とにかくフリーの状況で育児をしているのが、
今の男性の姿というわけです。

<4>担当業務の違い(我が家の場合)
これは全ての家庭に当てはまることでは
ないかもしれませんが、少なくとも我が家では
普段の生活を妻が主に見ていますので、
どうしても平凡で単調な業務も多いし
また生活習慣を教えるなど、
叱る必要のある場面も多くなります。
対して、自然とイベントごとの増える
週末を中心に接している僕の場合は、
単純に時間の比較だけでは測れない
「子ども自身のテンションの差」を
プラスで享受していることになります。
加えて、きなこから見ての我々の扱いにも
・妻←安心を求める
・僕←遊び相手
という明確な使い分けがあるようで、
つまり総合すると僕が接しているきなこは
「概ね機嫌がいい」ということになります。
それだけこちらが受け取る好意の量も増え、
嫌な面を見ずに済んでいるということです。


以上、これで全ての要素を書き出せているとは
とても思いませんが、ざっと考えただけでも
これだけの差が母親の育児・父親の育児の間に
存在しているということになるかと思います。
そんな中冒頭の発言は、その男女の立場の差を
一切無視した言わば「お花畑発言」ですし、
結果として育児に苦しんできた・今も苦しむ
多くの人を傷つけることになってしまった事は
申し訳ない気持ちでいっぱいです。

でも、ここまで反省の弁を述べておきながら、
なお発言の中で触れていることそのものを
否定する気にはなれずにいます。
育児が誰にとってもただ辛いだけのものならば
もう人類は早く滅んだ方がいいレベルですし、
当然よい面もあるからこそ、これまで何とか
存続できてきたのだろうと思うからです。
ただ、直後のツイートでも触れているように


今の日本において、育児の負担があまりにも
女性に偏ってきた現状、偏っている現状が
最大の問題なのであろうと思われるのです。
パートナーの男性なり、他の家族なり地域なり
社会なりが、そこの育児にかかる責任と業務を
適切に母親から引き剥がすことができて、
誰にとっても過剰な負担になることなく
「辛いけど頑張れる」くらいにまで出来れば、
自然と子どもを育てることの良い面ももう少し
見えてくるのではないかと期待しています。

既に十分すぎるほど辛い経験をしてきた・
している人の心を癒やすことは
今からでは難しいかもしれないけれど、
少なくともこれから先の世代に
「育児も案外悪いもんじゃないね」くらいには
思ってもらえるようになれば…と思います。
その為にもまず、我々男性がいま持っている
「自由が効く立場」を最大限に活用して、
女性が感じる育児のしんどさの引き受けと、
重すぎる責任の共有に取り組んでいくことが
大切なのではないかと考えています。


小学生の頃に妹の育児に参加したことで、
育児をすることは当然と思って生きてきたし
いつかそうすることを楽しみにしてきました。
大きくなって、あまりに育児というものが
ネガティブにとらえられている現状を知って
残念にも思ったし、どうにかして皆がもっと
子どもを育てることに前向きになれないか、
ぼんやりとではありつつ強い願いを持って
こうして実践もしてきたし、このブログ含め
色々な所で意見の発信もしてきたつもりです。

本当なら男も女も関係なく、どちらも同じ
「子育てという高い壁に挑戦する同士」として
励まし合ってやっていきたいと思っていた
けれど、現実にはこの国の多くの人の考え方も
社会に流れる空気にも「男が育児すること」と
「女が育児すること」には大きな違いがあり、
決して同じようにはできないのだということが
だんだんとわかってきました。

正直、こんな社会しか残してくれなかった
上の世代を恨めしくも思うし、こんな考え方の
蔓延するこの国がとても嫌だと思っています。
でも、もうすぐいなくなるその人達のことを
いくら責めても社会が変わるわけでもないし、
親である以上は次の世代のことを考えて
今できる精一杯のことをするしかないのだと、
何とか気持ちを立て直して前向きになるべく
いろいろな可能性を探っている最中です。

こうやって発信すること自体も、男である以上
ぬるま湯の中から喚いていることは事実ですし
そのことはきちんと自覚したいと思います。
その上でなお、自分の発言が誰かを傷つけて
いないか、前向きになろうなろうとすることが
却って誰かのプレッシャーになっていないか、
今まで以上に気を配っていきたいと思います。

ただ今回、改めて今の自分の余裕のなさに
この失言を通して気づくことになりました。
ツイッターやブログで何かを発信することで
たくさんの方から頂けるリアクションが、
つらい日々の中で生きる活力になっていたのも
事実ではありますが、少し足元を見直して、
もう少し余裕を持ってものを考えられるよう
その距離を図っていければと思っています。

まずは明日から受付が始まる確定申告と、
(初の青色申告に軽くパニック中)
4月に迫ったきなこの入園準備と、
目下つわりと格闘中の妻のサポートを、
再優先に考えて取り組んでいきます。

企業に「働くママに寄り添う」前にやってほしいこと

サイボウズという企業の、
働くママたちに、よりそうことを。
と銘打った取り組みの件。

今年に入って公開された第2弾のムービーにも
実に多くの意見が出されていますし、
私もTwitterで散々苦言を書いたので、
もうこれ以上何も言わないでおこうかと
思っていたのですが、やはり大事なことなので
改めてまとめておこうと思います。

Twitterでは、どうにも一人だけ方向性の違う
怒り方をしていた気がしますが、
ここでも例の「パパにしかできないこと」と
いう映像の中身について、細かく言うつもりは
あまりありません。
「作業は分担しても責任は分担しないで」
「役割ではなくタスクとリソースの問題」
「向き不向きを言ってる場合じゃない」
夫婦の役割分担の話は
このサイトで何度も言ってきたことですし、
当事者である「働くママ」の皆さんが
存分にツッコミを入れて下さっていますので、
そちらを読んで頂ければと思います。
そのことよりも書いておきたいのは、
「企業として、日本の子育てに問題意識を
 持っているのなら、何をして欲しいか」
についてです。
かなり長いですがご容赦ください。


■日本の子育ての問題点

あくまで個人の感覚ですが、今の日本に対して
私は「非常に子育てのしにくい国」だという
印象を持っています。
理由は子育ての当事者である皆さんには
今さら言うまでもないことかもしれませんが、
大きく分けて「お金の問題」「時間の問題」
そして「意識の問題」が子どもを育てる上での
障害になっているように見えます。

お金というのは、非正規雇用で働く人の割合が
増加して、貧困が拡大していることなど、要は
「子育てするのに必要な収入が得られない人」
が増えているという問題です。
特に、再分配後の方が子どもの貧困率が
悪化している
という話もあるように、
社会として制度がまともに機能していない
状態の中で、「無理ゲー」などと言われながら
私たちは子育てをしています。

そして時間の問題というのは、被雇用者の
「長時間労働」のことです。
労働者である(主に)男性を会社に縛り付けて
彼らから家事・育児に使う為の時間を奪い、
反対に女性は家の中に閉じ込め、家事育児等の
無償労働」を押し付けてきた社会。
結果、男は仕事以外のことに目を向ける
余裕など持てないほど働かされ、
女は元々背負わされてきた家の仕事を
抱えたままで外に働きに出ることになり、
仕事・家事・育児の3つの役割を
同時に一人でこなしているような状況です。

最後の「意識の問題」も同じことで、
「男は仕事、女は家事育児」という
ジェンダーによる固定化された役割意識は、
元を正せば企業を中心とした社会が
男を労働力として使い倒すために作り上げた
高度成長期以後の仕組みでしかないのに、
まるで初めから決まっていたかのように
今も日本人全体に深く染み付いています。
そのことが、時代の移り変わりに柔軟に
対応することを妨げ、結果として働き方の
選択肢を社会全体として狭めることに
なってしまっているわけです。
加えて、ここでは敢えて詳しく触れませんが
日本人の「男尊女卑」の問題も、同じく
意識の問題として大きく横たわっています。

終身雇用を盾に男は家の仕事から遠ざけられ、
その制度が崩壊し、もはや一人分の稼ぎでは
家族を養えないようになった今もなお、
相変わらず労働時間は長いまま。
そして女はその労働価値を低く見積もられ、
稼ぎ手となった後も正当な評価を得られず、
しかも役割意識は時代の変化に追いつかず、
家事育児労働も他の担い手はいないまま。
まさにあのサイボウズのムービーのような
つらい状況に追い込まれる働く母親を
次々に生み出し続けている、というのが
今の日本の育児をつらいものにしている
問題点である、というように見ています。


■個人ではどうしようもできないこと

本来これらの問題を解消できるのは、
「制度を作る」というとても大きな力を
持った「国」なのでしょうが、残念ながら
個人的にはそこに全く期待が持てずにいます。
現政権は、むしろ女性差別を助長し
性別による役割分担を強化させる方向に
進めたがっているように見えますし、
子育てを巡る状況は改善されるどころか
ますます悪化して行っているように見えます。

そして、次に問題解決のカギとなるのが、
良くも悪くも経済中心で回っているこの国の
将来を左右するほどの影響力を持った
「企業」という存在だと思っています。
というより、「非正規雇用による低賃金」も
「長時間労働」の問題も、元凶はここにある
と言っていいんじゃないかと考えています。
法人税減税とか、残業代廃止とかのニュースが
流れてくる度に、これだけ経営側にとって
都合のよい仕組みを作り上げておいて、
しかも国民は文句も言わずに働いていて、
まだ何か足りないものがあるの?くらいに
思ってしまうわけです。

翻って個人レベルではどうかというと、
以前TVで見たとある子育て夫婦の例ですが、
夫さんは朝も暗いうちから出勤し、
夜も日が替わる頃にやっと帰ってくる生活。
しかも非正規雇用で賃金もたかが知れてる、
奥さんは当然家から出て働きに出ることなど
できるわけもなく、一日中子どもの世話を
し続ける毎日。そんな人達を見てもなお、
夫さんに「もっと子育てに協力して」とか
「奥さんの気持ちに寄り添って」とか
言えというのか?という気持ちに
ならざるを得ません。

また我が家の例ですが、昨年は5年間働いた
会社で「雇い止め制度」の煽りを食い、
契約社員を続けられなくなりました。
正社員への道は提示してもらえたものの、
それはつまり周りの他の正社員と同じく
「毎日終電間際まで残業がある」という状況を
受け入れる、という道です。
今の孤立無援な状況で、現時点で自分が
「家事育児要員」として離脱するわけには
どうしても行かず、残念ながらその選択肢は
断念するしかありませんでした。


■企業だからこそできること

もちろん、自分のやりたいことばかりして
家庭を顧みないひどい父親もいるでしょう。
反対に、夫とのコミュニケーションを
図ることもせず、一人で全てを抱え込んで
今にも潰れそうになっている母親だって
きっといるだろうと思います。
でも、いくらそういう個人が意識を変えて
家庭の環境改善に目を向け、家のことが
潤滑に運営されるようになったとしても、
やっぱり一人一人の頑張りだけでは
どうにもならない「壁」があると思うのです。

だからこそ、そこは企業に動いてもらいたい。
今の長時間労働が当たり前の社会を、
企業の側から打ち崩してもらえなければ、
無力な我々個人がいくら頑張り続けても
社会を劇的に変えることなどできません。
というより、社会を変えるための力すら
持てないほどに、日本人は労働というものに
縛られているというのが現状だと思います。

サイボウズという会社は、その中でも
個人的に期待をしてきた企業でした。
これまでも社長自ら育休を取得したり、
「男性もまた抑圧されている」と説く
男性学助教授と対談したりと、
「働き方の効率化」を促進させるという
本業以外にも、様々取り組みをされています。

今回も、ワーキングマザーが置かれている
状況に目を向けようとしていると聞いた時、
かなり期待をしたのも事実です。
でも蓋を明けてみたら、その取り組みは
あまりにも思っていたものとは違いました。

映像を作って、それをWebで公開することが、
彼らが考える問題意識を解決する上で、
本当に最善の手段なのでしょうか?

もちろん、働くお母さんのつらさに目を向け、
気持ちに寄り添うことは大切です。また、
家事育児を自分のこととして捉えられずにいる
父親の意識を変えていくことも、もちろん
やっていかなければならないことです。

でもそれは、企業がやることではない。
目の前で苦しんでいる妻の気持ちに寄り添って
話を聞いてあげることも、理解に乏しい夫に
自分の苦しみをきちんと伝え、一人では
抱えきれない負担を分かち合っていくのも、
お互いのパートナーや、身近な人の役割です。
少なくとも、それは一企業がやることではなく
個人のレベルの話か、むしろ反対に社会全体で
取り組むべき非常に大きな話だと思うのです。

企業として社会を変えたいのなら、やるべきは
家庭の事情にいちいち首を突っ込んで
「もっと奥さんを気遣いましょう」などと
説教することではないはずです。
そんな余計なお世話を働くくらいなら、
まさにあなた達の管轄分野の問題である
長時間労働に目を向け、それを解消できる
「制度」を作ることに積極的になって下さい。
ポエム的なメッセージで一般人の意識を
変えさせようとなどする前に、
そういう実績を積み上げ、明確な事実として
「具体例」を世に示していってほしいのです。
それこそが決して個人にはできない、
企業だからこそできる最も効果的な
「社会を変える取り組み」となるのでは
ないでしょうか。


トップランナーとして

例のムービーに対するネットの反響の中には、
「問題提起しただけでもすごいことだ」
というような意見もありました。
でも、そんなのは得意先に売り込みに行って
プレゼン資料の冒頭部分だけを話して
「あとは後日…」と言って帰るようなもので、
私がそのプレゼンを受ける側の社長だったら
まずそんな会社とは取引しません。
どうしてもフックとして映像を使うなら、
その先にどういうゴールを設定していて
どんな方法で解決への道筋を作っていくのか、
という全体的なビジョンを示して初めて
成り立つことではないかと思います。

また、「あまり意識の高いこと言っても
響かないから、あれでよかったのだ」という
意見に関しても、以前から言っている
イクメン」の話と通じるのですが、
もともと周回遅れの状況なのに、最下位の
カメに合わせて「ゆっくり走れ」などと
言うのは、結局全体の歩みを止めさせるし、
むしろ頑張っている人達に対して失礼です。
先に行けるのならさっさと先に行って
頂上の地ならしをしておいてもらうのが、
その脚力を与えられたウサギの能力を
最も評価するということだと思うので、
今回まるで後ろを振り返るように
「家事育児に積極的でないパパに向けて」
などというメッセージを出したことを、
もっと怒っていいと思うのです。
そんなことしてる場合かと。

全体の底上げをすることも悪いことでは
もちろんないですが、今回のケースで言えば
そうやって走るペースを落とさせることが
日本社会の「何をやっても無駄」という
倦怠感につながっているようにも思えるので、
むしろサイボウズにはトップランナーとして
どんどん先に行ってもらって、
理想の形を「モデルケース」として我々に
見せてもらった方が、よっぽど希望が湧くし
応援したい気持ちになるというものです。


■見極め、評価する力を

ここまで大きなことを言っておいて何ですが、
私は一介のフリーランスに過ぎませんので
政治のことも経済のこともほとんど素人です。
ここまで書いてきたことも、別に何かデータの
裏付けがあってのことではなく、聞きかじった
僅かな知識と、あとは全て想像です。

でもこんな人間でも社会の一員ですし、
何より自分の子どもを未来に送り出すという
役目を持った「親」でもありますから、
少なくとも身近な「子育て」という分野で
何とか社会を変えようという志を持った
サイボウズという企業のことは、これからも
もっと注目していきたいと思っています。

そして、素晴らしい取り組みにはきちんと
評価をし、もし足を引っ張るような動きや
歩みを止めさせるような声が上がるなら、
それに対してもきちんと批判できるように
こちらも見ていくつもりです。

「働くママたちに、よりそう」と
彼らが言うのであれば、もちろん
社内にはそれを支援する制度が整っていて、
ちゃんと男女の給与水準は同じになっていて、
決定権を持つポストには男女が同数か
それに近い数で就いていて、当然のごとく
次期社長の席も、男女ともに同じ可能性で
門戸が開かれた状態である。
少なくとも、それを目指している企業である。
という前提で今後も見極めていかなければ
ならないと考えます。

そしていつか、サイボウズが先頭を切って
作った道筋を他の多くの企業も追随していき、
結果としていつか日本全体が
今よりもずっと子育てに優しい社会に
なっていることを、心から願います。

「なぜ自分は育児をするのか」 をあえて考えてみる

このブログの検索ワードを見てみると、
圧倒的に多いのが「産後」のことです。
実際、例の産後クライシス記事以来
幾度となく触れてきた話題なので
そりゃそうかなぁという気もするのですが、
そこに続く第二検索語も見てみると
「産後 旦那がストレス」
「産後 夫 理解してくれない」
「産後 夫 育児しない」
といった具合なので、やはり産後の夫に対する
不満を持った方が多く見に来ているようです。

せっかく見に来て頂いたのだから…と思いつつ
最近は2歳児のイヤイヤへの対応で
正直いっぱいいっぱいなのと、
産後クライシス周りのことに関しては
以前に対策として書いたとおり
「事前にきちんと知識を身につけること」と
「夫婦でコミュニケーションをとること」で
ほぼ言いきってしまっている感じなので、
それ以上特に新しく書くことも
見つけられなかったりします。

でもそんなふうに「喉元すぎれば」とばかりに
当事者じゃなくなった途端に
無関心になるのもやはり気が引けるので、
ここは一つ原点に立ち返る意味も込めて
「そもそも自分は何で育児をするんだろう?」
ということを考えてみようと思います。
自分自身と向き合ういい機会にもなりますし、
「夫」のはしくれとして考え方をさらすことで
事例の1つくらいに捉えてもらえるならば、
書いてみる意義も少しはあるかもしれません。

とはいえ、実は「何で育児をするのか」なんて
わざわざ考えたことなど一度もありません。
案外多くの親の皆さんもそうなんじゃないかと
思っているんですが、いちいちそんなことで
悩む暇もないというか、あえて出したとしても
「そこに子どもがいるから」くらいの理由しか
思いつかない、というのが本音です。
ただ流石にそれでは話が終わってしまうので、
何とかもうちょっとひねくってみます。


■少なくとも「かっこいいから」ではない

巷で見かける「イク○ン」という言葉。
どうやら「育児する男はかっこいい」という
イメージを打ち出して男性の育児参加を
促す向きがあるようですが、
「かっこいい」という要素が育児に取り組む
理由になることは特にありません。
逆に「じゃあカッコ悪ければやらないの?」と
考えてみれば明確ですが、そんなのは
判断材料で何でもなく、どのみちやるのです。

「チヤホヤされたいんじゃないのか?」
という話で言うと、ブログやTwitterなどで
何かを発信することは確かにチヤホヤされたい
というか、周りからの「承認されたい」欲求が
かなりのモチベーションになっています。
ただそれはあくまで記事という「文章表現」を
一種自分の「作品」と考えているからで、
作品をほめられることが嬉しいというだけ。
子ども自身はもちろん自分の作品ではないし、
何か結果を求めて取り組んでいるものでも
ない訳だから、そっちのことと子育てをするか
どうか、ということとは全く別の話です。


■メリットや条件は判断材料ではない

よく聞くのが「育児はこんなメリットがある」
という話。自分でも時々言ったりします。
例えば「成長を目の前で見ていられる」とか、
「多様な状況判断能力が身につく」とか。
シンプルなところでは「とにかくかわいい」
「喜びを感じられる」とかも。
きっと全てその通りなのでしょうし、
そう思えるのはとてもいいことだと思います。
でも正直な話、自分自身がそういうメリットを
わざわざ並べ立てて、総合的にはプラスだから
育児をやろう!などと考えたことはないです。
メリットゼロでこんなつらいことやるのか?と
問われたらどうなるかはわかりませんが、
幸い今までそんな判断を迫られたことはないし
少なくとも「やろうかな、やめようかな」
なんて悩むようなものではありませんでした。
最初からごく自然に「自分が取り組むもの」と
認識していたように思います。

同じく「共働きだったら当然やるでしょ!」
「こんな時代なんだから、男もやらなきゃ!」
みたいな意見もよく見かけるんですが、
そこも果たして条件付きなものなのか?という
疑問が湧くのです。
「こうだったらやるべき」というのは、逆に
「こうだったらやらなくていい」というものも
作りだしてしまう考え方なので、
それは少し違う気がします。
家庭環境がどうあろうと、時代がどうあろうと
まず「やる」ことが前提にあって、
もしやむを得ない理由があれば
やれない場合もある、くらいのものが
自分にとっての子育ての位置づけです。


■自己犠牲なのか?

家庭という場があって、妻と子どもがいて、
その中でただ役割を果たしているだけなのか
どうかということに関しては、少し考えます。
お金が必要だから仕事もするし、
人手が足りないから家事も育児もするし、
パートナーだから妻の心のサポートもする。
そこまで家庭のために、他の人も自分を犠牲に
できるものなのだろうか?という点です。

自分は元々の性格として自己評価がとても低く
また過剰に周りに気を遣ってしまうために
つい自分よりも他人を優先しがちで、
さらに「自分さえ我慢すれば」と考えるあまり
結果的に負担の抱え込みすぎで己の方が
先に潰れてしまい、かえって家族に迷惑を
かけてしまうこともよくある人間です。
その点は今後も気をつけるとして、
さて果たして「他人のため」だけで人は
生きていけるのか?を突き詰めると、
実際は決して他人のためにやっているばかり
ではない、ということに気づきます。

要するに、「誰かのために何かすることの
気持ちよさを知っている」というだけで、
結局は自分のためなのです。
それは相手からの感謝だったり、
笑顔が増えることだったり、それによって
家庭という空間が心地よくなることだったり。
いろんな要素がありますが、要はそれが
自分にとってとても魅力的なものだという
だけなのだと思います。だから、
「楽しいからやってる」
「やりたくてやってる」
というのは決してウソでもヤセ我慢でもなく、
本当の気持ちです。


■「男らしさ」に興味がない

自分でもどうしてこういう価値観になったかは
あまりよくわかっていませんが、
思い当たるのはまず親。
「うちは貧乏だから」と口癖のように言われて
「ヨソはヨソ、ウチはウチ」を地で行くような
家庭で育てられた影響なのか、
「普通」というよくわからない概念に
縛られずに済んでいるような所があります。
子どもの頃は周りと同じにできないことが
強烈なコンプレックスになっていましたが、
年とともにそれが逆転して行っているようで
今ではむしろ心地よさを感じています。
特に親は「男らしさ」を押し付けるような
ことを言うタイプでもなかったし、
成人してからの自分の生き方に何か指図を
してくるようなこともありませんでした。

おかげで自分自身の趣味趣向もあって
どんどん男性・女性の区別のないところへ
突き進んでいく人間になっていきました。
その延長線上に育児はあったので、
よく「男には居心地の悪い場所」とされる
「赤ちゃん休憩室」も「生理用品売場」も
一切抵抗を感じずに行けるし、
周りが受け入れてくれるかどうかは別として
女性ばかりの場に入っていくことも、
母親向けデザインしかない育児用品を使ったり
することも、特に抵抗感なくできるのです。
特に子育てに関することで言えば
目的はあくまで子どもを育てることなので、
自分がターゲットから外れていようが
多少環境が整備されていなかろうが、
「だって、仕事だから」としか思いません。

そこは「男らしさ」の価値観に縛られている
人にとってはつらいことかもしれませんが、
少なくともきちんと目的意識を持って
取り組める人であれば、どちらの方を
優先すべきかは明確ではないかと思います。


長々と、自己分析的なことを書いてきました。
結局は性別だとか、性的役割分担だとか、
環境だとか特性だとか、そういったものが
何一つ関係ない所にあるのが子育てというか、
もっと人の営みの基本になるものというか
(これを「家事」に置き換えても同じですが)
「やらなきゃいけないことだからやる」
というのが一番しっくり来る感覚です。

人間はいろんなものに理由が必要だったり
「こっちの方が合理的」みたいなことを
突き詰めていくものなのかもしれませんが、
ぶっちゃけ「面倒くさいこと言ってないで
とにかくやれ」と言いたい気持ちなので、
あーだこーだ言い訳ばかりして
家事育児から逃げようとする夫の方には
最終的にはその一言でいいような気もします。

もちろん自分がモデルケースだなんてことを
言うつもりはこれっぽっちもないし、
そもそも妻だって本当は産後から今日まで
ストレスをたっぷり抱えていて、広い心で
黙っていてくれているだけかもしれないし、
(実際今も懸念に思っていることがあるので
今度聞いてみるつもり)
自分の独りよがりっぷりを思い知る日が
いつかくるかもしれないと思いつつ、
毎日試行錯誤を続けているわけです。

そういうことを日常的にやっている、
世に沢山いるであろう「夫」のみなさんの
1つのサンプルとして、今の時点での
考え方をまとめてみたという話でした。


もともと価値観の違う他人だった者同士が
一緒に生活していく以上は、面倒なことも
たくさん乗り越えていかなきゃいけないし、
衝突もあれば誤解もあって当然だと思います。
そんな所へまたとんでもないストレスのかかる
「子育て」というものが入ってくる訳だから、
やっぱり危機は危機なのだと思います。

そのことをこれから子どもを持つ夫婦は勿論
他の家族も、周りの人も、社会も、みんなが
ちゃんと認識してあげて、どうにかその2人が
破滅にだけは突き進まないで済むように、
サポートして行けたらいいのかなと思います。