シーホースとナッツ

長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育て中に考えたこと、の保管場所。

「すみません実は分かりません」

平和です。

何しろこの季節にして、現状家族の誰も
風邪を引いていません。
もちろんあんこは何か不満なことがあれば
すぐ全力でブチ切れて泣き叫ぶし、
きなこのわがままっぷりにはほとんど一日中
イライラさせられているしで、冬休みに入って
たった3日で既に朽ち果てそうですが、
去年の大変さのことを思えば
やっぱり今年の年越しは極めて平和です。

さらに今日は気候も大変良かったので、
大掃除も大変はかどりました。
(夕方疲れすぎてダウンしましたが…)
明日からの後半戦も、こんな感じで
平和だといいなと願いつつ。

さて、今日は今年一年の振り返りでも
しようかと思いましたが、思い返しても
しんどかった記憶しか出てきそうにないのと、
どうせ数時間後にはまたいつも通りに
子どもの世話が始まるし…と思うと
そんな気分にもなれないので、
ちょっと最近思っていることなんかを。

若い頃、よく「自分は張り子のようだ」
なんてことを考えていました。
転職を繰り返し、専門性も何も持ってない
世界に飛び込むことばかりだったので、
基礎となるものがないまま外側だけを
固めているような、
中身が空っぽのまま殻だけ厚くしているような
感覚を常に感じていたような気がします。

そういう自覚があると(なくても?)、
「ここに踏み込むとマズいな」という部分を
上手に避けようとする技術ばかりが
身に付いていきますね。
わからないことがバレないように、
自信がないことを悟られないように、
ハッタリばかりが上手くなるのです。

本当は早い段階で
「すみません実は分かりません」
「ごめんなさい本当はできないんです」
ということが言えればいいんですけど、
それを言えるにはまたそんな自分に自信が
必要だったりして、これがなかなか難しい。
でも、そうやってごまかして避けた結果、
結局問題はそのままそこに残るのです。
だって解決してないんだから。
この悪循環は、未だに自分の中にいろんな所で
わだかまったままになっているので、
この先もいつどこで噴出するかわかりません。

実は、今の日本の「問題の解決できなさ」も
これと同じような形で起こっているんじゃ
ないかと思っていて、
「実は分かりません」「本当はできません」を
言いだせないばっかりに、
結果としてその問題から目を背けるか、
問題そのものをなかったことにしてしまうか
という悪循環に陥っているような気がします。
そういう、できない自分達と向き合わない限り
今後も問題が解決する方向には行かないんじゃ
ないかと勘ぐっていたりするわけです。

そしてさらに、子育てのことに関しても
全く同じことが起こり得ると考えていて、
自分の子どもが生まれた時点で
子育ての専門家だなんて人は殆どいません。
まして一人一人対応が変わるものであることを
考えると、「この子の子育て」に関して
最初から私はプロであるなんて言える人は
皆無です。

誰も最初は完全なる初心者なのが、子育て。
なのにそのことを自分から言えない環境が
あるんじゃなかろうか。
母親には「できて当たり前」という
社会からの謎なプレッシャーが、
父親にも「知らないと認めることは恥」という
自分達で作り上げたこれまた謎な価値観が
それぞれ悪い方に作用して、
一方では思ったように上手くできないという
現実によって本人を大いに苦しめたり、
一方ではそもそも「育児という問題」から
目を背けさせる力になってしまっている。

だから、まず我々は子育てに関して
「分かりません」「できません」が
普通に言える状態にしなきゃいけない。
もともと答えもなければ解決法もないのが
子育てという世界です。
だからそれをやる人間は不安でいっぱいだし、
何年取り組んでも悩むし、毎日だって迷うし、
あわよくば逃げ出したくもなるし、
その重すぎる責任を一人で受け持つなんて
無理なものなんだ。
そういう認識をみんなが持てるように
しなきゃいけないんじゃないか。

「子育て」という問題自体に解決方法はないかもしれないけれど、
「子育て環境」という問題ならば、
ちゃんと取り組めばちゃんと解決できるもので
あると思います。

みんなが少しでもラクに、
楽しく子ども育てていける、
そんな世の中になることを祈って。

良いお年を。

この国でやっていくしかないんだから

今日行われた選挙の結果によって、
市民にはなるべく権利を持ってほしくない、
子ども達にはなるべく賢くなってほしくない、
そして男女平等なんて死んでも許せない、
そう考えている政党とそのお仲間の人達が
引き続き政治の場で力をふるっていくことが
決まってしまいました。

きっとこれから先、今まで以上にこの国は
強い立場の人達にだけ都合のよい、
私たち弱者にとっては生きづらい社会に
なっていくのだろうと思います。
それどころか、色々な所でこれまでの
システムが立ち行かなくなっていって、
ますますただ生きていくだけでも大変な
世の中になってしまうかもしれません。

はっきり言って絶望の気持ちで一杯ですが、
何しろそれが、他の誰のせいでもない
私たち自身の選択の結果なのです。
たとえ一人一人にどれほどいろんな思いが
あろうとも、社会全体で見てしまえば
自分達で望んで、自分達の意志で
こうなって行こうとしているのです。
それがたとえ「何も判断しない」という
消極的な選択だったとしても。
それがたとえ破滅への道だとしても。
今日の結果で、誰かを恨んでも仕方ない。

それに、たとえどんなに絶望したところで
結局明日からもこの国で生きていかなきゃ
ならないことには変わりません。
何より私たちは、子育てをしている身です。
どんなにひどい世の中でも、未来を彼らに
受け渡す役目を持っている以上、
「ここは生きる価値のない国だ」などとは
言えるはずがないのです。
私たちは次の世代に、
「こうすれば社会は良くできる」という
手本を示していかなければなりません。
たとえ今がどん底だとしても、
必ず今より良い未来を作っていける、
そういう希望を彼らに伝えていかなければ
なりません。

男女が平等でない方がいいと思っている、
そういう考えの人がいるのは事実です。
庶民には基本的人権などない方がいいと、
そう考えている人がいるのは事実です。
たとえその人達のことを否定したとしても、
その人達にとっては自分の信じることを
否定されることになるのだから、
当然反発するでしょう。
そういう考えの人もいる、という前提で、
それでもなお1つの同じ社会の中で、
彼らも含めたいろいろな考えの人達が
お互いの存在を尊重し、距離を保ちながら
全員が少しでも生きていきやすくなる、
そういう社会を私たちは目指して悩んで
考えていかなければならないのだと思います。

絶望することは、必ずしも悪いことでは
ありません。
「絶望は消せない。何度でもよみがえる。
だからそれ自体を否定するのではなく、
いつそれが襲ってこようとも
何度それに捕らわれようとも、その度に
希望を見いだし、夢を信じ続けるのが
私たちにできることだ。」
そう教えてくれたのは、去年親子で見ていた
『Go!プリンセスプリキュア』でした。

せめて今日くらいは、
思いっきり絶望したらいいと思います。
「何であれだけ頑張ったのに、
いつもこんな結果になるんだよ!」と、
床に突っ伏して泣いたっていいと思います。
でも明日になったら、
また前を向いて、
希望を持って、
未来を今よりも少しでも良いものに
していくことを目指して、
できることをやっていきたいと思います。

それが子ども達に見せられる、
精一杯の親の姿だと思います。

改めて、北欧との大きな違い

昨日、こんな番組がありました。

AI LOVE❤ベイビー 子育て王国フィンランドSP
| BSフジ

【プレビュー】
「子育て王国フィンランドスペシャル」
――お母さんにやさしい国フィンランドの
 子育て事情がまるわかり

僕もそれなりにフィンランドをはじめとする
北欧各国のことには興味を持ってきたので、
番組の内容自体はさほどの真新しさもなく
サラッと見終わってしまいましたが、
ただこれまで北欧の人達のものの考え方に
多くの影響を受け、また育児に限らず
様々な点でお手本にしてきた中で、
今回改めて番組を見ながら彼らと日本との
違いについて考えてみた時、それは
実はきわめてシンプルな「人の育ちに対して
注がれるものの圧倒的な差」ではないかと、
強く感じたのでした。

注がれるものというのは、もちろんお金であり
また人々の意識そのものでもあります。
日本では、最近でも子育て支援の拡充や
保育士の待遇改善の話が国会の場に出ると
途端に「財源が…」という声が聞こえてきて、
今の政権はよっぽどお金を出したくないんだな
というのが丸わかりなのですが、そこは結局
「今あるものをどこにどれだけ振り分けるか」
ということでしかないと思うわけです。

つまりその度に財源の話を持ち出される時点で
そもそも子どものことに公的なお金を
振り分けることに関して、社会としての
合意が全くできていないんだろうなと
感じないわけにはいかないのです。
要するに、社会全体として圧倒的に
「子どもにお金をかけたくない」。

日本がそういう感覚になってしまったのも、
何となく分かります。
いつの頃からか、育児は女性だけのものになり
逆に男性は労働力として、利益だけを考えて
生きることを求められるようになりました。
それだけでなく、女性への差別が非常に強く
社会の意志決定の場がほぼ男性だけで
構成されているこの国では、
そういう男性側の認識が社会の仕組み作りの
基本になってしまっています。

結果、ただでさえ女性蔑視のせいで育児を
「女のやること」と軽く見るのに加えて、
自分達がやらないことは簡単そうに見える
という二重の悪影響が生まれてしまった。
お金を稼ぐことだけを担わされた人達、そして
「子どものことなんか俺には関係ない」と
思っている人達が、一円も稼げない人間なんて
無価値であるという考えに基づいて、子どもを
社会の厄介者にしてしまったのだと思います。

デザインを何もわかっていないクライアントが
「そんなもん簡単にできるんだろ」と
考えるのと同じような感覚で、
「子どもなんて放っときゃ勝手に育つだろ」と
思ってしまっているんだろうと思います。
そりゃお金だって出ないよね、という訳です。

優劣感を煽ることで人々の競争心を駆り立て、
「子どもがちゃんと育たなければ母親の責任」
と罪悪感で親の尻を叩きながら、
「一生懸命やれば必ずできるはずだ!」
などと具体的な指導も何もない根性論を
振りかざしているだけで、勝手に子どもが
育っていくと思ってるなら、それはあまりにも
子育てというものを見くびりすぎだし、
何より「一人の人間が育つ」ということを
あまりに軽視しすぎだと思います。

それに、子どもの時に軽く扱われて育ってきて
それが大人になったら急に大事にされるように
なるわけもないので、結局は日本がそもそも
「人」というものを大事にできない国だ、
ということなのだろうと思います。
別に日本に強くなって欲しいとは
微塵も思っていませんが、それにしても
元々人くらいしか頼るもののないこの国で、
ここまで人間というものを軽く扱っていて、
それでどうにかなれると思ってるとしたら
我々はどれだけ楽観的なのか、はたまた
いかに何も考えないようにしているか、
ということのような気がします。

北欧というと、その税金の高さばかりが
注目され、国の規模などの比較を根拠に
「日本でそのまま通じるわけがない」などと
言われたりしますが、本当は一つ一つの
政策の違いなどという方法論の話ではなく、
何より「人を大事にできる度合い」が大きく
違ってしまっているのではないかというのが、
今回改めて感じさせられたことでした。
逆に、だとすれば国の大きさや風土など
関係なく、やろうとすれば今すぐにでも
やれることなのではないか?ということも。

月並みな言い方ですが、経済的な豊かさが
幸せの指標だと思い込まされている我々は、
どうせ経済的に豊かでなくなった途端に
不幸感に襲われるのは目に見えている訳で、
しかしまだまだそんな意識が主流派な中、
いずれはこの社会を次の世代に引き渡して
いくことになるのだということを、
いま子どもを育てている親の一人として
考えないわけにはいかないのです。

「すくすく子育て」で懺悔した件

今週のすくすく子育ては、「いい母の重圧」が
テーマでした。

いい母の重圧 【すくコム】

番組放送前は、お母さん達が感じてしまう
その重圧の正体が、社会全体から母親への
「子育て責任の押しつけ」であることには
僕が普段から問題意識を持っているので、
もしそのことをスルーして母親個人の
心の持ちように終始するなら批判してやろう
くらいに思っていたのですが、いざ放送を
見てみたら事態は意外な方向に行くことに
なったのです。
それは、普段から僕が感じている
「罪悪感」に原因がありました。

まず最初の質問、仕事から帰ってきた夫に
「笑顔で迎えてほしい」と言われたことで
プレッシャーを感じている、という女性。
実はこれが、僕自身にとって
大いに心当たりがある話だったのです。

僕も平日、仕事の間は子ども2人の世話を
妻に任せてしまっていることもあって、
土日はせめて負担を軽く過ごしてもらえるよう
できるだけ意識しています。
でも実際は、たった数時間子どもを連れて
外に出ようが、逆に妻が一人で外出して
多少の自由な時間を持ってもらおうが、
はっきり言えば焼け石に水なのでしょう。
日々の負担を吹き飛ばせるほどの効果は
ないのだろうと思います。
相変わらず子どもにはイライラしているし、
週末の2日間ぐらいで目に見えるような変化が
起きるわけもないのです。まあ当然です。

しかしそのことが、僕の中で無力感になって
跳ね返ってきてしまうことがあります。
いくら土日をそういう風にしてがんばっても
結局平日と同じように不機嫌になっている
姿を見て、「こんなにがんばったのに…」と
妻のことを責める気持ちになってしまっている
自分に、時々気づくのです。
妻のイライラを減らすためにやっていることが
いつしか僕自身のイライラに変わって
相手に向かってしまっているという、
その本末転倒ぶりに激しく自己嫌悪に
陥ることがこれまで幾度となくありました。

さらに番組内で、3つ目の質問の際
「思っていたようないい母になれない」という
話の中で、「旦那さんはどうですか?」と
出演者の男性に質問が飛びました。
その夫の方は「どちらかというと子どもの側に
立つので、そういう意味では彼女を孤立させて
しまっているのかな」と答えたのです。
これもまた、まさしく僕が普段から
強く自己嫌悪とともに感じていることでした。

普段親として子どもに接している中で
一番というくらいに気を付けているのが
「2人がかりで責めない」ということ。
大人2人に同時に責められれば、子どもは
孤立してしまい、逃げ場がなくなってしまう。
だから怒るのは親のどちらかだけで十分で、
もう一人はその時こそ子どものフォローに
徹するようにしようと心がけています。

もとより、恐らく僕の方が子どものすることに
口出しをする基準が低いこともあって、
どうしても妻の側が注意する、それを僕が
フォローするという図式になる機会が多い。
実はこれは以前から夫婦間で話が出ていて、
僕が子どもをかばって妻が孤立する状況が
本人的にも決して気分は良くないということは
直接言われていたことでした。
だから、最初に子どものフォローに回るのは
仕方ないとしても、その後できちんと妻にも
フォローをすることが大切だというのは
重々わかっていたのですが、
正直それがちゃんとできていないことも
自覚していて、それもまた罪の意識として
自分の中に積み重なっていたのでした。

そんなことを立て続けに浮き彫りにされた
今回の放送を、一人打ちひしがれる気持ちで
見ていた僕は、一緒に見ていた妻に番組終了後
正直にそのことを話し、懺悔しました。

その結果、妻から帰ってきた言葉は
「番組で言ってたとおり、”人間だから”で
 いいんじゃない?」と。
確かに番組の中で、講師の大日向先生が
人間宣言しましょうよ」と仰っていました。
感情の生き物なのだから感情的になって当然、
上手くできなくて当たり前と思って、
上手くできなかったら後で反省し
2人で調整してやっていけばいい。
そういう趣旨のことでした。

妻からは、結局そうやって僕が
「フォローしなきゃ」と頑張ることは、
僕は僕で「いい父・いい夫であれ」という
重圧に苦しんでいるのと同じだと。
そちらもそちらで「できなくてしょうがない」
という気持ちでやればいいんじゃないかと
言われました。

確かにその通りでした。
土台2人きりで仕事と家事と2人の育児を
全部完璧にこなすのは無理だというのは
最初からわかっていて、お互い共通認識に
なっていたはずでした。
最初から無理なことは無理、
できないことがあってもしょうがないと
2人で言い聞かせて始めたはずでした。
でもどこかで「もうちょっとできるはず」と
いう自負が自分の中にあったのだと思います。

現実を見れば、1日1回は爆発しとかないと
いられないのかというくらいキレまくる長女、
上手く昼寝ができないといって金切り声を
あげまくる次女、そして毎日の出勤前には
「今日こそはスムーズに出られるかな…」
という期待を脆くも打ち砕く、
長女の登園拒否や食事の遅れ、突然のトイレ、
着替え面倒、髪を結べ、靴下はこれじゃない。
さらに次女のオムツ替え、猫の嘔吐などなど…
不測の事態の連続で、おおよそイライラせずに
家を出られたためしがないという毎日です。

そんな日々の中で、妻に対しては「大人だし」
ということであまりフォローもできなければ
イライラの矛先が向いてしまうこともあるし、
何でそれくらいやってくれないの、と
責める気持ちになってしまうこともある。
結果そんな自分も責めれば、妻に対しても
申し訳ない気持ちばかりが募っていましたが、
それも今の状況を考えれば「しょうがない」と
割り切ることも必要なのだと思います。

起こってしまったことを自己嫌悪するよりも、
そういう気持ちを後でもいいから相手に伝えて
何とかぼちぼちやっていく道を探っていく。
お互いにそういうことをやる機会も
最近の怒濤の日々の中ではあまりできて
いませんでしたが、今回のことがきっかけで
久しぶりにしっかり会話ができたことは
僕にとって非常にありがたいことでした。

わがままなのはどっちだ

4歳にはなりましたが、きなこの勝手ぶりは
今日も今日とて絶好調であります。

僕は平日、朝の幼稚園への登園までと
夜家に帰ってから寝るまでの数時間しか
相手をしていませんが、その間だけでも日々
いつまでたっても布団から起きてこないのを
「さぁ起きようねー!」と焚き付け、
いつまでたってもご飯が食べきらないのを
「次は卵行ってみようか~!」と鼓舞し、
いつまでたってもトイレが終わらないのを
「踏み台は片づけてあげるから!」と支援し、
いつまでたってもお風呂から上がらないのを
「お湯が冷めたら寒くなっちゃうから!」と
説得するようなことを、
毎日毎日続けているとほんとに疲れますし、
いつだってイライラを抑えきれずに
怒ってしまいそうなギリギリの状態で
相手をしています。ていうか怒ってます。

昼間は昼間で、最近妻がお迎えに行くと
特にわがままっぷりが爆発しているようで、
公園に行きたい、お店に行きたい、
なんか買いたい、なんか食べたい、
歩きたくない、帰りたくない、早く帰りたい…
と伝え聞いてるだけでも泣けてくるし、
それにあんこを抱っこした状態で相手する
妻のストレスはいかばかりかと思います。

言ってしまえば「もうわがまますぎて
手に負えない」という感じなのですが、
先日幼稚園で先生との面談があり、そこで
きなこの園での様子が少しわかりました。
ある程度予想はしていたものの、園ではかなり
きちんといろんなことができているようです。
言われたことは守るし、給食で苦手なものも
頑張って食べられるようになってきているし、
運動会でもおゆうぎ会でもあれだけ
きっちりフリを覚えているということは、
それだけしっかり気を張ってまじめに
取り組んでいるということなのでしょう。

また先日の「幼稚園拒否事件」のことも
あったし、やはり本人は園に行っている間
相当ストレスを受けているのかもしれません。
その分が降園後、あるいは家での身勝手な
行動になっている可能性はあると思います。
我々だって日々の子育てで疲れた分、
夜ちょっと甘いものを食べて埋め合わせを
したりしています。それと同じように、
彼女もまた家にいる時くらいはわがままを
言いたいし、いろんな要求を出してはそれに
応えてもらいたいと思うのかもしれません。

それ以前に、朝起きる時間も、登園時間も、
それは結局全て大人の側の都合です。
別に本人に頼まれてそうしていることなんて
何一つなくて、要は大人の時間の流れに
彼女を巻き込んでいるだけなのです。
本人からしてみれば、何事も自分のペースで
取り組みたいところを、親たちの方が勝手に
「いつまでに終わらせろ、さぁ次をやれ」と
次々要求してきているようなものなわけで、
お前らの方がよっぽどわがままを言っていると
実は思っているかもしれません。

もちろん社会で生きていく以上は、ある程度
ルールに合わせていかないわけにいきません。
そもそもルールはみんなが円滑にトラブルなく
過ごしていけるためにあるので、それに
合わせていくこと自体は、成長するにつれ
もちろん身につけていってもらわなきゃ
いけないことだと思います。
とはいえ、現時点で本人にとってそんなのは
「知ったこっちゃないこと」であるのもまた
事実だと思うのです。

あともう一つ、いくらこちらの都合に
合わせてもらうのが仕方ないことだとしても、
あくまで本人の「こうしたい」という気持ちは
無視したり、封じ込めたりしちゃいけない。
それは大事な「感情」だから。
たとえ今は叶えてあげられないとしても、
本人の中にある感情の存在自体を
否定してはいけないのだと思います。
そうして「感じること」を否定され続けた結果
何が自分の感情なのかもわからなくなって
しまったような大人を、実際よく見かけます。
そんなふうには、やっぱりなって欲しくない。

現実に全てを許容することは、こちらの
貧弱なキャパシティでは無理なことだけれど、
せめて意識のどこかでは
「わがままを言っているのは大人の方かも」
ということを考えておきたいし、
子どもも子どもでつらい思いをしている
可能性のことには思いを馳せておきたいし、
そうやって感情をむき出しにして
わがままを言ってくること、その感情を
持つこと自体が悪いことだなどとは
思わせないようにしつつ、やれる範囲で
接していけたらと思うのでした。

と言いつつきっと明日の朝にはまたさっそく
イライラしどおしになるんだろうし、
夜にはまた妻と2人で肩をたたき合って
「今日もしんどかったね…!」って
やるんだろうと思いますが。

パパの育児の方が楽かもしれない理由をもう1つ

■パパがママより楽な理由…?
■「いいとこ取り育児」を担う身として

↑これまで、育児をしながらその都度感じた
「男の方が楽に育児ができるんじゃないか?」
ということをいろいろと書いてきましたが、
今回もう1つちょっとした発見が
ありましたので、まとめてみます。

先日、家族揃って近所の大型スーパーに
買い物に行った時のこと。
長女きなこがトイレに行きたいというので、
妻に一緒に行ってもらいました。
なおここのトイレは女性用にはおむつ交換台も
子ども用便座も用意されてるのに、
男性用にはそんなものは一切ないんですよね。
なんて書くと「男性の育児の方が大変」という
話になってしまいますが、本題はその後です。

トイレの前にベンチが置いてあったので、
少しみんなで座って休むことにしました。
するときなこが靴を脱ぎたいと言いだし、
座面に立ち上がってジャンプを始めたのです。
僕は全くしょうがないなぁとは思いつつ、
まあ本人はそれが楽しいんだろうし
気が済んだらやめさせようぐらいでしたが、
一方隣の妻が今すぐにやめさせたいと思って
いることは、その表情から明らかでした。
なぜ2人の間で、子どもの行動に対して
一方は別に大したことじゃないと受け取り、
一方は強いストレスを感じたのか。
突き詰めてみると、そこに男女ならではの
「感じ方の差」があるように思えたのです。

いま父親である人たちはみんな、かつては
「男の子」として育てられてきました。
一方で母親の皆さんは、かつて女の子として。
そしてもちろん全てそうだとは言いませんが、
おそらくこの国のほとんどの家庭において
男の子は「男の子らしい」ことを良しとされ、
多少のやんちゃな行動であっても
「元気があっていい」「男の子だからしょうが
ない」などと言われ、実に多くのことを
「許され」て育ってきたのでしょう。
一方で女の子はそんなことは許されず、
行儀良く、はしたないことをしない、ルールを
きちんと守る「女の子らしい」子どもとして
育てられてきたのだろうと思います。

そしてそんな子どもの頃の経験が
大人になってからも感覚として残っており、
親になってから自分の子どもがしでかす
「自由な行動」に対する反応にも、
差として表れているのではないだろうか。
そんなことを今回の件を通じて思ったのです。
つまり「それをストレスに感じるかどうか」の
しきい値に、男と女で差ができているのでは
ないか?という話です。

ここでいったん、僕自身の考えについて少し
触れておこうと思うのですが、僕は基本的に
この国でよく使われている
「男らしさ」や「女らしさ」といった言葉が
あまり好きではありません。
逆によく引き合いに出す、とても好きな言葉に
「個人差は必ず性差を超える」
というものがあります。
生まれ持った性別によって生じる特徴なんて、
一人一人がもともと持っている個性に比べれば
よほど小さいものなのだということを、
自分自身のことを考える上でも
また今こうして子育てに携わる上でも、
常に忘れずにいようと心がけています。

ただ、実際の社会はそうもいきません。
僕の親は決して「男らしさ」を押し付けて
くるようなタイプではありませんでしたが、
もちろん影響を与えるものは親だけではなく
目に映るいろんなものから
「男とはこうあるべき」
「こうでない男は恥ずかしい」という
メッセージを受け取って成長してきました。
その中で、世間のイメージする「男性」と
自分自身との差に苦しんだこともあったし、
みんなと同じようにできないことに対して
恥ずかしいとも感じて生きてきました。
ようやく大人になって、いろんなことが
分かるようになってきて、別にそれは
恥ずかしいものでも何でもないのだと
理解できるようになっていきましたが、
それでもなお自分の中に刷り込まれた
「男とはこういうもの」という考えが
時々顔を出すことがあり、その度に
若干の自己嫌悪におちいっています。

だから、正直今のこの世の中が良いなんて
ちっとも思ってはいないのです。
はっきり言えば、この社会において
男性はあまりにも未成熟にさせられすぎだし、
一方で女性は大人であることを求められ
すぎていると思っています。
できればどちらか一方に偏ることなく、
また理想を言えば誰もがその人自身の個性を
最大限尊重されて、その人なりのスピードで
成長して行ってもらえるような、そんな道筋を
用意できる社会が一番よいと思います。
だから、冒頭の例のように、こうやって
男女で感覚に差ができてしまうことは、
望ましい状況では決してないのです。

ということをはっきりと言っておいた上で、
ただ果たして4歳くらいの子どもにとっては
何が一番よいのだろうということを考えた時、
少し事情が変わってきます。
まだ性別による「らしさ」はそれほど
本人の中に明確にできあがってはおらず、
かつ社会規範というか、何が良くて
何が悪い行いかもよく分かっていない年齢。
その時期なら、明らかに危険な行動でなければ
なるべく本人のやりたいことを尊重して
やらせてあげたいところです。というより、
まだ「悪いこと」の基準がないが故に
本人の中の「やりたいこと」を制限されると、
ものすごく怒る年頃だったりするわけです。

だからそのフリーダムさをこちらが許容して
付き合ってあげることが必要になるのですが、
もしもそんな子どもの行動に対して
あまりストレスを感じないで済むとしたら、
それは大きなメリットです。
もちろんこの先社会で上手くやっていくために
徐々に社会のルールは身に付けていって
もらわないといけないのですが、その時だって
「特にストレスを受けていない冷静な状態で」
教えることができるというのは、
やはりかなりのメリットだと思います。

そのメリットを持つのがつまり、男性というか
父親なのではないか?ということです。
育てられてきた環境が緩かったが故に、
子どもの行動に対してストレスを感じるまでの
基準も緩いのが、父親の持つ大きなメリット。
もし本当にそうだとすると、それを活かさない
手はありません。
幼児期の子どもの相手は、父親こそが積極的に
買って出て、本人のやりたいことを満たしつつ
冷静に社会のルールを教える役を担う。
そしてそうすることで、同じことをするにも
母親の方がより強く感じてしまうストレスを、
負わないで済むようにしてあげられるなら。
それは素晴らしいことではないかと思います。
ある意味で現状の社会の歪みを逆手に取って、
「父親だからこそ上手くできること」として
取り組んでみてはどうでしょうか。
そんなことを今パパをやっている皆さんも、
これからパパになる皆さんにも、ちょっと
考えてみてもらえたらと思うのでした。

そして最後に。
夫のみなさんには、奥さんが「そんなことで」
ストレスを感じるのだということを、
ぜひ理解してほしいと思います。
男性ならなんてことないように思うことも、
女というだけで背負わされているものが
たくさんあるが故に重荷になってしまうのが、
この国における女性です。そしてそれは、
もちろん本人には何の責任もないことです。
あえて言うなら、女性というだけでそのように
枠にはめて育ててきた上の世代のせいであり、
女性にそういう役割を押しつける社会のせい。

僕自身、見えていないことはまだまだ山ほど
あると思います。今回のことにしても
ちょっと考えればわかることなのに、実際に
その場に立ってみないと気づけませんでした。
これからも、自分達は「許され」てきたのだ
ということ自覚しつつ、引き続き子育てにも
取り組んでいく次第です。

3歳児の頭の中。その2

(前回の記事→ 3歳児の頭の中。その1

この前の連休最終日、長女きなこの謎な行動の
意外な理由を知った私たち。それを受けて
今の状況で出来ること・出来ないことを
改めて確認し合い、明日からまた頑張ろうと
決意を新たにした、次の日の朝のことでした。

前の晩にしっかり話を聞いてあげたからか、
きなこはいつも手こずる布団からも威勢よく
起きてきて、ねこあつめのおかげもあって
朝食も遅れることなく食べ終わり、
幼稚園へ行く準備はいつになくスムーズに
進んでいたはずでした。

そのねこあつめで、手持ちの金額が足りず
「買えるものが何もない」という事態から、
雲行きは急激に悪化を始めます。
別にそのこと自体は珍しいことではなく
連休中にも何度か同じ状況は発生していて、
でもこれまでは多少うだうだ言いながらも
ちゃんとゲームを終わらせられていました。
それがこの日はちっとも気持ちが収まらない。
何を言っても「何か買いたいの!」と大荒れ。
鬼の形相でパンチキックが飛んできます。
こちらも休み明けで、会社は朝の会議もあり
遅刻ができません。タイムリミットがある中で
ついイライラを抑えきれず、悪い方に本人を
刺激するような態度をとってしまいました。
前の晩に「子どもの声に耳を傾けよう」と
思った、舌の根も乾かぬうちに。

結果、怒って寝室に走ったきなこを追うと、
次に飛び出したのは「幼稚園行きたくない」!
この辺でやばい雰囲気を感じ、冷静になって
買えなかったことへの遺憾の意と、
配慮に欠ける言動をしたことへの
謝罪の姿勢を示すも、やはり鎮まる気配なし。
事態を心配した妻が顔を出したものの
「ママは帰って!」。
ためしに強硬手段で先に着替えを始めて
一人で出発するような素振りを見せると、
まさに逆効果。大泣きされてしまいます。
前に上手くいった「どんなことがイヤなの?」
と聞きいてみる戦法も、全く効果なし。
ひたすら「幼稚園ヤダ」の一点張りです。
なおこの辺りで、つられて泣き出すあんこ。

既に朝の会議への遅刻は確定していましたが、
とにかく何とか事態を収めないといけないので
泣き喚くきなこを抱っこしてリビングに戻り、
とにかく落ち着いてもらえるまで待ちました。
妻が気を遣って「もう私が送っていくから」
「休ませるしかないかねぇ」と声をかけて
くれましたが、それが本当に最終手段で、
可能な限り回避すべきことであるのは
何より妻自身の顔色が物語っていました。
しかしそこで、もはや僕らの対応では
どうにもできないような驚きの発言が、
きなこの口から飛び出したのです。

ようやく少し落ち着いてきた所を見計らって
改めて会話を試みてみたところ、
「どうしても幼稚園休みたいの?」
「…うん」
「何か恐いことでもあるの?」
「…うん」
「どんなことが恐いの?」
「…だって、Aちゃんが意地悪してくるから」
「!!?」
Aちゃんとは、以前きなこが「一番の仲良し」
だと言っていた、クラスの女の子です。
そういえば秋頃には登園中に一度だけ、
「今はAちゃんはBちゃんが好きなの」と
最近はあまり遊んでいないことを匂わす発言を
していたことがありましたが、まさかそんな?

よくよく聞いてみると、Aちゃんからは
「パンチされた」り
「座ってたら後ろから蹴られた」り
していたそうで、そういうことさえなければ
幼稚園には行ける、とのことでした。
そこまで聞いてもはや「行きなさい」なんて
とても言えるわけもなく、とにかく本人には
話してくれてありがとうということを伝え、
今日は休んで担任の先生にも電話で伝えて
サポートをお願いしようということになり、
きなこもそのことに同意してくれたので
(というより是非電話をしてほしいと)
結局この日は妻に、何の準備もないままでの
2人のお世話と電話連絡の負担を強いつつ、
僕は20分遅れで会社に向かったのでした。

その後の先生への電話、さらに翌日のお迎えで
妻が直接会話して聞いたところによると、
「確かにきなことAちゃんは、一時期一番の
仲良しだった」
「Aちゃんに限らず、まだ気持ちを上手に
伝えられない子も多く、Aちゃんも別に
意地悪をしているつもりはなかったようだ」
「BちゃんとAちゃんは幼稚園に入る前からの
友達で、今はきなこも他の子と遊ぶようになり
Aちゃんは前のようにBちゃんと遊んでいる」
ということがわかりました。

結局まだまだ3歳児、上手に言葉で表現できず
おかしなやりとりや衝突が生まれることも
現場では度々起きていることのようです。
その都度先生が仲裁したりサポートしたりして
ちょっとずつ人間関係ができていっている、
という話は確かに以前父母会でも聞きました。

きなこも、普段の会話はかなりスムーズに
できるようになってきているものの、それも
あくまで本人の持つボキャブラリーの中での
やりとりに過ぎません。
特に「気持ち」のような実体のないものは
言葉で置き換えるのが難しいだろうし、
自分の中の感情を言い表す言葉を知らなければ
表現することはできないわけです。
そこを大人が、代わりに翻訳するつもりで
言葉にしてあげる作業が必要だというのは、
それこそイヤイヤ期の頃から感じていた
ことでした。
まだまだ表現力が未熟な分、こちらが根気よく
子どもの考えていることや感じていることを
理解する努力をしなければいけないのだと、
前の出来事に続いてつくづく思い知らされたの
でした。

さて先ほど「お迎え」と書いた通り、きなこも
翌日には無事に登園することができました。
先生がさっそく直接話を聞いてくれたそうで、
ただそれに関して本人は
「ちょっとだけね。」と言っていたし、夜には
「幼稚園で誰が助けてくれるの?」
「先生だよ~」
という会話もしているので、果たしてどれだけ
本人の中でのわだかまりが解消されているかは
わかりませんが、とにかくこちらとしては
「何か嫌なことがあったら聞くからね。」と
伝え続けて見守るしかないのかなと思います。

友達関係のトラブルなんて、まあいずれは
起こるにしてもまさか3歳で早くも…とは
我々も若干浮き足立った所がありましたが、
こういうことを経験してこちらもスキルを
身に付けていくことになるのでしょう。
先ほど「表現力が未熟」と書きましたが、
実際今回のことに関しても相手の子の言い分も
訊いたわけじゃないし、きなこがどこまで
正確に起こったことを説明できているかも
定かではありません。
でも少なくとも、そこは子どもの言うことを
信じるという前提で接することが
大切なのだろうと思います。そうでなければ、
子どもの信頼を得ることなどできません。
またそれに関して妻が、
本人が「イヤだと感じた」、そのこと自体は
紛れもなく事実だ、と言っていました。
本当にその通りだと思います。

いくら表現力が未熟だからといっても、
感じることや気持ちの部分は
大人と何ら変わるものではありません。
ただそれを置き換える言葉を知らないだけで、
子どもは子どもでいろんなことを感じたり、
いろんな感情を持って生きているはずです。
そのことを忘れずに、これからも子ども達と
きちんと向き合っていこうと思った、
今回の濃い数日間の出来事でした。