シーホースとナッツ

長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育て中に考えたこと、の保管場所。

「すくすく子育て」で懺悔した件

今週のすくすく子育ては、「いい母の重圧」が
テーマでした。

いい母の重圧 【すくコム】

番組放送前は、お母さん達が感じてしまう
その重圧の正体が、社会全体から母親への
「子育て責任の押しつけ」であることには
僕が普段から問題意識を持っているので、
もしそのことをスルーして母親個人の
心の持ちように終始するなら批判してやろう
くらいに思っていたのですが、いざ放送を
見てみたら事態は意外な方向に行くことに
なったのです。
それは、普段から僕が感じている
「罪悪感」に原因がありました。

まず最初の質問、仕事から帰ってきた夫に
「笑顔で迎えてほしい」と言われたことで
プレッシャーを感じている、という女性。
実はこれが、僕自身にとって
大いに心当たりがある話だったのです。

僕も平日、仕事の間は子ども2人の世話を
妻に任せてしまっていることもあって、
土日はせめて負担を軽く過ごしてもらえるよう
できるだけ意識しています。
でも実際は、たった数時間子どもを連れて
外に出ようが、逆に妻が一人で外出して
多少の自由な時間を持ってもらおうが、
はっきり言えば焼け石に水なのでしょう。
日々の負担を吹き飛ばせるほどの効果は
ないのだろうと思います。
相変わらず子どもにはイライラしているし、
週末の2日間ぐらいで目に見えるような変化が
起きるわけもないのです。まあ当然です。

しかしそのことが、僕の中で無力感になって
跳ね返ってきてしまうことがあります。
いくら土日をそういう風にしてがんばっても
結局平日と同じように不機嫌になっている
姿を見て、「こんなにがんばったのに…」と
妻のことを責める気持ちになってしまっている
自分に、時々気づくのです。
妻のイライラを減らすためにやっていることが
いつしか僕自身のイライラに変わって
相手に向かってしまっているという、
その本末転倒ぶりに激しく自己嫌悪に
陥ることがこれまで幾度となくありました。

さらに番組内で、3つ目の質問の際
「思っていたようないい母になれない」という
話の中で、「旦那さんはどうですか?」と
出演者の男性に質問が飛びました。
その夫の方は「どちらかというと子どもの側に
立つので、そういう意味では彼女を孤立させて
しまっているのかな」と答えたのです。
これもまた、まさしく僕が普段から
強く自己嫌悪とともに感じていることでした。

普段親として子どもに接している中で
一番というくらいに気を付けているのが
「2人がかりで責めない」ということ。
大人2人に同時に責められれば、子どもは
孤立してしまい、逃げ場がなくなってしまう。
だから怒るのは親のどちらかだけで十分で、
もう一人はその時こそ子どものフォローに
徹するようにしようと心がけています。

もとより、恐らく僕の方が子どものすることに
口出しをする基準が低いこともあって、
どうしても妻の側が注意する、それを僕が
フォローするという図式になる機会が多い。
実はこれは以前から夫婦間で話が出ていて、
僕が子どもをかばって妻が孤立する状況が
本人的にも決して気分は良くないということは
直接言われていたことでした。
だから、最初に子どものフォローに回るのは
仕方ないとしても、その後できちんと妻にも
フォローをすることが大切だというのは
重々わかっていたのですが、
正直それがちゃんとできていないことも
自覚していて、それもまた罪の意識として
自分の中に積み重なっていたのでした。

そんなことを立て続けに浮き彫りにされた
今回の放送を、一人打ちひしがれる気持ちで
見ていた僕は、一緒に見ていた妻に番組終了後
正直にそのことを話し、懺悔しました。

その結果、妻から帰ってきた言葉は
「番組で言ってたとおり、”人間だから”で
 いいんじゃない?」と。
確かに番組の中で、講師の大日向先生が
人間宣言しましょうよ」と仰っていました。
感情の生き物なのだから感情的になって当然、
上手くできなくて当たり前と思って、
上手くできなかったら後で反省し
2人で調整してやっていけばいい。
そういう趣旨のことでした。

妻からは、結局そうやって僕が
「フォローしなきゃ」と頑張ることは、
僕は僕で「いい父・いい夫であれ」という
重圧に苦しんでいるのと同じだと。
そちらもそちらで「できなくてしょうがない」
という気持ちでやればいいんじゃないかと
言われました。

確かにその通りでした。
土台2人きりで仕事と家事と2人の育児を
全部完璧にこなすのは無理だというのは
最初からわかっていて、お互い共通認識に
なっていたはずでした。
最初から無理なことは無理、
できないことがあってもしょうがないと
2人で言い聞かせて始めたはずでした。
でもどこかで「もうちょっとできるはず」と
いう自負が自分の中にあったのだと思います。

現実を見れば、1日1回は爆発しとかないと
いられないのかというくらいキレまくる長女、
上手く昼寝ができないといって金切り声を
あげまくる次女、そして毎日の出勤前には
「今日こそはスムーズに出られるかな…」
という期待を脆くも打ち砕く、
長女の登園拒否や食事の遅れ、突然のトイレ、
着替え面倒、髪を結べ、靴下はこれじゃない。
さらに次女のオムツ替え、猫の嘔吐などなど…
不測の事態の連続で、おおよそイライラせずに
家を出られたためしがないという毎日です。

そんな日々の中で、妻に対しては「大人だし」
ということであまりフォローもできなければ
イライラの矛先が向いてしまうこともあるし、
何でそれくらいやってくれないの、と
責める気持ちになってしまうこともある。
結果そんな自分も責めれば、妻に対しても
申し訳ない気持ちばかりが募っていましたが、
それも今の状況を考えれば「しょうがない」と
割り切ることも必要なのだと思います。

起こってしまったことを自己嫌悪するよりも、
そういう気持ちを後でもいいから相手に伝えて
何とかぼちぼちやっていく道を探っていく。
お互いにそういうことをやる機会も
最近の怒濤の日々の中ではあまりできて
いませんでしたが、今回のことがきっかけで
久しぶりにしっかり会話ができたことは
僕にとって非常にありがたいことでした。

わがままなのはどっちだ

4歳にはなりましたが、きなこの勝手ぶりは
今日も今日とて絶好調であります。

僕は平日、朝の幼稚園への登園までと
夜家に帰ってから寝るまでの数時間しか
相手をしていませんが、その間だけでも日々
いつまでたっても布団から起きてこないのを
「さぁ起きようねー!」と焚き付け、
いつまでたってもご飯が食べきらないのを
「次は卵行ってみようか~!」と鼓舞し、
いつまでたってもトイレが終わらないのを
「踏み台は片づけてあげるから!」と支援し、
いつまでたってもお風呂から上がらないのを
「お湯が冷めたら寒くなっちゃうから!」と
説得するようなことを、
毎日毎日続けているとほんとに疲れますし、
いつだってイライラを抑えきれずに
怒ってしまいそうなギリギリの状態で
相手をしています。ていうか怒ってます。

昼間は昼間で、最近妻がお迎えに行くと
特にわがままっぷりが爆発しているようで、
公園に行きたい、お店に行きたい、
なんか買いたい、なんか食べたい、
歩きたくない、帰りたくない、早く帰りたい…
と伝え聞いてるだけでも泣けてくるし、
それにあんこを抱っこした状態で相手する
妻のストレスはいかばかりかと思います。

言ってしまえば「もうわがまますぎて
手に負えない」という感じなのですが、
先日幼稚園で先生との面談があり、そこで
きなこの園での様子が少しわかりました。
ある程度予想はしていたものの、園ではかなり
きちんといろんなことができているようです。
言われたことは守るし、給食で苦手なものも
頑張って食べられるようになってきているし、
運動会でもおゆうぎ会でもあれだけ
きっちりフリを覚えているということは、
それだけしっかり気を張ってまじめに
取り組んでいるということなのでしょう。

また先日の「幼稚園拒否事件」のことも
あったし、やはり本人は園に行っている間
相当ストレスを受けているのかもしれません。
その分が降園後、あるいは家での身勝手な
行動になっている可能性はあると思います。
我々だって日々の子育てで疲れた分、
夜ちょっと甘いものを食べて埋め合わせを
したりしています。それと同じように、
彼女もまた家にいる時くらいはわがままを
言いたいし、いろんな要求を出してはそれに
応えてもらいたいと思うのかもしれません。

それ以前に、朝起きる時間も、登園時間も、
それは結局全て大人の側の都合です。
別に本人に頼まれてそうしていることなんて
何一つなくて、要は大人の時間の流れに
彼女を巻き込んでいるだけなのです。
本人からしてみれば、何事も自分のペースで
取り組みたいところを、親たちの方が勝手に
「いつまでに終わらせろ、さぁ次をやれ」と
次々要求してきているようなものなわけで、
お前らの方がよっぽどわがままを言っていると
実は思っているかもしれません。

もちろん社会で生きていく以上は、ある程度
ルールに合わせていかないわけにいきません。
そもそもルールはみんなが円滑にトラブルなく
過ごしていけるためにあるので、それに
合わせていくこと自体は、成長するにつれ
もちろん身につけていってもらわなきゃ
いけないことだと思います。
とはいえ、現時点で本人にとってそんなのは
「知ったこっちゃないこと」であるのもまた
事実だと思うのです。

あともう一つ、いくらこちらの都合に
合わせてもらうのが仕方ないことだとしても、
あくまで本人の「こうしたい」という気持ちは
無視したり、封じ込めたりしちゃいけない。
それは大事な「感情」だから。
たとえ今は叶えてあげられないとしても、
本人の中にある感情の存在自体を
否定してはいけないのだと思います。
そうして「感じること」を否定され続けた結果
何が自分の感情なのかもわからなくなって
しまったような大人を、実際よく見かけます。
そんなふうには、やっぱりなって欲しくない。

現実に全てを許容することは、こちらの
貧弱なキャパシティでは無理なことだけれど、
せめて意識のどこかでは
「わがままを言っているのは大人の方かも」
ということを考えておきたいし、
子どもも子どもでつらい思いをしている
可能性のことには思いを馳せておきたいし、
そうやって感情をむき出しにして
わがままを言ってくること、その感情を
持つこと自体が悪いことだなどとは
思わせないようにしつつ、やれる範囲で
接していけたらと思うのでした。

と言いつつきっと明日の朝にはまたさっそく
イライラしどおしになるんだろうし、
夜にはまた妻と2人で肩をたたき合って
「今日もしんどかったね…!」って
やるんだろうと思いますが。

パパの育児の方が楽かもしれない理由をもう1つ

■パパがママより楽な理由…?
■「いいとこ取り育児」を担う身として

↑これまで、育児をしながらその都度感じた
「男の方が楽に育児ができるんじゃないか?」
ということをいろいろと書いてきましたが、
今回もう1つちょっとした発見が
ありましたので、まとめてみます。

先日、家族揃って近所の大型スーパーに
買い物に行った時のこと。
長女きなこがトイレに行きたいというので、
妻に一緒に行ってもらいました。
なおここのトイレは女性用にはおむつ交換台も
子ども用便座も用意されてるのに、
男性用にはそんなものは一切ないんですよね。
なんて書くと「男性の育児の方が大変」という
話になってしまいますが、本題はその後です。

トイレの前にベンチが置いてあったので、
少しみんなで座って休むことにしました。
するときなこが靴を脱ぎたいと言いだし、
座面に立ち上がってジャンプを始めたのです。
僕は全くしょうがないなぁとは思いつつ、
まあ本人はそれが楽しいんだろうし
気が済んだらやめさせようぐらいでしたが、
一方隣の妻が今すぐにやめさせたいと思って
いることは、その表情から明らかでした。
なぜ2人の間で、子どもの行動に対して
一方は別に大したことじゃないと受け取り、
一方は強いストレスを感じたのか。
突き詰めてみると、そこに男女ならではの
「感じ方の差」があるように思えたのです。

いま父親である人たちはみんな、かつては
「男の子」として育てられてきました。
一方で母親の皆さんは、かつて女の子として。
そしてもちろん全てそうだとは言いませんが、
おそらくこの国のほとんどの家庭において
男の子は「男の子らしい」ことを良しとされ、
多少のやんちゃな行動であっても
「元気があっていい」「男の子だからしょうが
ない」などと言われ、実に多くのことを
「許され」て育ってきたのでしょう。
一方で女の子はそんなことは許されず、
行儀良く、はしたないことをしない、ルールを
きちんと守る「女の子らしい」子どもとして
育てられてきたのだろうと思います。

そしてそんな子どもの頃の経験が
大人になってからも感覚として残っており、
親になってから自分の子どもがしでかす
「自由な行動」に対する反応にも、
差として表れているのではないだろうか。
そんなことを今回の件を通じて思ったのです。
つまり「それをストレスに感じるかどうか」の
しきい値に、男と女で差ができているのでは
ないか?という話です。

ここでいったん、僕自身の考えについて少し
触れておこうと思うのですが、僕は基本的に
この国でよく使われている
「男らしさ」や「女らしさ」といった言葉が
あまり好きではありません。
逆によく引き合いに出す、とても好きな言葉に
「個人差は必ず性差を超える」
というものがあります。
生まれ持った性別によって生じる特徴なんて、
一人一人がもともと持っている個性に比べれば
よほど小さいものなのだということを、
自分自身のことを考える上でも
また今こうして子育てに携わる上でも、
常に忘れずにいようと心がけています。

ただ、実際の社会はそうもいきません。
僕の親は決して「男らしさ」を押し付けて
くるようなタイプではありませんでしたが、
もちろん影響を与えるものは親だけではなく
目に映るいろんなものから
「男とはこうあるべき」
「こうでない男は恥ずかしい」という
メッセージを受け取って成長してきました。
その中で、世間のイメージする「男性」と
自分自身との差に苦しんだこともあったし、
みんなと同じようにできないことに対して
恥ずかしいとも感じて生きてきました。
ようやく大人になって、いろんなことが
分かるようになってきて、別にそれは
恥ずかしいものでも何でもないのだと
理解できるようになっていきましたが、
それでもなお自分の中に刷り込まれた
「男とはこういうもの」という考えが
時々顔を出すことがあり、その度に
若干の自己嫌悪におちいっています。

だから、正直今のこの世の中が良いなんて
ちっとも思ってはいないのです。
はっきり言えば、この社会において
男性はあまりにも未成熟にさせられすぎだし、
一方で女性は大人であることを求められ
すぎていると思っています。
できればどちらか一方に偏ることなく、
また理想を言えば誰もがその人自身の個性を
最大限尊重されて、その人なりのスピードで
成長して行ってもらえるような、そんな道筋を
用意できる社会が一番よいと思います。
だから、冒頭の例のように、こうやって
男女で感覚に差ができてしまうことは、
望ましい状況では決してないのです。

ということをはっきりと言っておいた上で、
ただ果たして4歳くらいの子どもにとっては
何が一番よいのだろうということを考えた時、
少し事情が変わってきます。
まだ性別による「らしさ」はそれほど
本人の中に明確にできあがってはおらず、
かつ社会規範というか、何が良くて
何が悪い行いかもよく分かっていない年齢。
その時期なら、明らかに危険な行動でなければ
なるべく本人のやりたいことを尊重して
やらせてあげたいところです。というより、
まだ「悪いこと」の基準がないが故に
本人の中の「やりたいこと」を制限されると、
ものすごく怒る年頃だったりするわけです。

だからそのフリーダムさをこちらが許容して
付き合ってあげることが必要になるのですが、
もしもそんな子どもの行動に対して
あまりストレスを感じないで済むとしたら、
それは大きなメリットです。
もちろんこの先社会で上手くやっていくために
徐々に社会のルールは身に付けていって
もらわないといけないのですが、その時だって
「特にストレスを受けていない冷静な状態で」
教えることができるというのは、
やはりかなりのメリットだと思います。

そのメリットを持つのがつまり、男性というか
父親なのではないか?ということです。
育てられてきた環境が緩かったが故に、
子どもの行動に対してストレスを感じるまでの
基準も緩いのが、父親の持つ大きなメリット。
もし本当にそうだとすると、それを活かさない
手はありません。
幼児期の子どもの相手は、父親こそが積極的に
買って出て、本人のやりたいことを満たしつつ
冷静に社会のルールを教える役を担う。
そしてそうすることで、同じことをするにも
母親の方がより強く感じてしまうストレスを、
負わないで済むようにしてあげられるなら。
それは素晴らしいことではないかと思います。
ある意味で現状の社会の歪みを逆手に取って、
「父親だからこそ上手くできること」として
取り組んでみてはどうでしょうか。
そんなことを今パパをやっている皆さんも、
これからパパになる皆さんにも、ちょっと
考えてみてもらえたらと思うのでした。

そして最後に。
夫のみなさんには、奥さんが「そんなことで」
ストレスを感じるのだということを、
ぜひ理解してほしいと思います。
男性ならなんてことないように思うことも、
女というだけで背負わされているものが
たくさんあるが故に重荷になってしまうのが、
この国における女性です。そしてそれは、
もちろん本人には何の責任もないことです。
あえて言うなら、女性というだけでそのように
枠にはめて育ててきた上の世代のせいであり、
女性にそういう役割を押しつける社会のせい。

僕自身、見えていないことはまだまだ山ほど
あると思います。今回のことにしても
ちょっと考えればわかることなのに、実際に
その場に立ってみないと気づけませんでした。
これからも、自分達は「許され」てきたのだ
ということ自覚しつつ、引き続き子育てにも
取り組んでいく次第です。

3歳児の頭の中。その2

(前回の記事→ 3歳児の頭の中。その1

この前の連休最終日、長女きなこの謎な行動の
意外な理由を知った私たち。それを受けて
今の状況で出来ること・出来ないことを
改めて確認し合い、明日からまた頑張ろうと
決意を新たにした、次の日の朝のことでした。

前の晩にしっかり話を聞いてあげたからか、
きなこはいつも手こずる布団からも威勢よく
起きてきて、ねこあつめのおかげもあって
朝食も遅れることなく食べ終わり、
幼稚園へ行く準備はいつになくスムーズに
進んでいたはずでした。

そのねこあつめで、手持ちの金額が足りず
「買えるものが何もない」という事態から、
雲行きは急激に悪化を始めます。
別にそのこと自体は珍しいことではなく
連休中にも何度か同じ状況は発生していて、
でもこれまでは多少うだうだ言いながらも
ちゃんとゲームを終わらせられていました。
それがこの日はちっとも気持ちが収まらない。
何を言っても「何か買いたいの!」と大荒れ。
鬼の形相でパンチキックが飛んできます。
こちらも休み明けで、会社は朝の会議もあり
遅刻ができません。タイムリミットがある中で
ついイライラを抑えきれず、悪い方に本人を
刺激するような態度をとってしまいました。
前の晩に「子どもの声に耳を傾けよう」と
思った、舌の根も乾かぬうちに。

結果、怒って寝室に走ったきなこを追うと、
次に飛び出したのは「幼稚園行きたくない」!
この辺でやばい雰囲気を感じ、冷静になって
買えなかったことへの遺憾の意と、
配慮に欠ける言動をしたことへの
謝罪の姿勢を示すも、やはり鎮まる気配なし。
事態を心配した妻が顔を出したものの
「ママは帰って!」。
ためしに強硬手段で先に着替えを始めて
一人で出発するような素振りを見せると、
まさに逆効果。大泣きされてしまいます。
前に上手くいった「どんなことがイヤなの?」
と聞きいてみる戦法も、全く効果なし。
ひたすら「幼稚園ヤダ」の一点張りです。
なおこの辺りで、つられて泣き出すあんこ。

既に朝の会議への遅刻は確定していましたが、
とにかく何とか事態を収めないといけないので
泣き喚くきなこを抱っこしてリビングに戻り、
とにかく落ち着いてもらえるまで待ちました。
妻が気を遣って「もう私が送っていくから」
「休ませるしかないかねぇ」と声をかけて
くれましたが、それが本当に最終手段で、
可能な限り回避すべきことであるのは
何より妻自身の顔色が物語っていました。
しかしそこで、もはや僕らの対応では
どうにもできないような驚きの発言が、
きなこの口から飛び出したのです。

ようやく少し落ち着いてきた所を見計らって
改めて会話を試みてみたところ、
「どうしても幼稚園休みたいの?」
「…うん」
「何か恐いことでもあるの?」
「…うん」
「どんなことが恐いの?」
「…だって、Aちゃんが意地悪してくるから」
「!!?」
Aちゃんとは、以前きなこが「一番の仲良し」
だと言っていた、クラスの女の子です。
そういえば秋頃には登園中に一度だけ、
「今はAちゃんはBちゃんが好きなの」と
最近はあまり遊んでいないことを匂わす発言を
していたことがありましたが、まさかそんな?

よくよく聞いてみると、Aちゃんからは
「パンチされた」り
「座ってたら後ろから蹴られた」り
していたそうで、そういうことさえなければ
幼稚園には行ける、とのことでした。
そこまで聞いてもはや「行きなさい」なんて
とても言えるわけもなく、とにかく本人には
話してくれてありがとうということを伝え、
今日は休んで担任の先生にも電話で伝えて
サポートをお願いしようということになり、
きなこもそのことに同意してくれたので
(というより是非電話をしてほしいと)
結局この日は妻に、何の準備もないままでの
2人のお世話と電話連絡の負担を強いつつ、
僕は20分遅れで会社に向かったのでした。

その後の先生への電話、さらに翌日のお迎えで
妻が直接会話して聞いたところによると、
「確かにきなことAちゃんは、一時期一番の
仲良しだった」
「Aちゃんに限らず、まだ気持ちを上手に
伝えられない子も多く、Aちゃんも別に
意地悪をしているつもりはなかったようだ」
「BちゃんとAちゃんは幼稚園に入る前からの
友達で、今はきなこも他の子と遊ぶようになり
Aちゃんは前のようにBちゃんと遊んでいる」
ということがわかりました。

結局まだまだ3歳児、上手に言葉で表現できず
おかしなやりとりや衝突が生まれることも
現場では度々起きていることのようです。
その都度先生が仲裁したりサポートしたりして
ちょっとずつ人間関係ができていっている、
という話は確かに以前父母会でも聞きました。

きなこも、普段の会話はかなりスムーズに
できるようになってきているものの、それも
あくまで本人の持つボキャブラリーの中での
やりとりに過ぎません。
特に「気持ち」のような実体のないものは
言葉で置き換えるのが難しいだろうし、
自分の中の感情を言い表す言葉を知らなければ
表現することはできないわけです。
そこを大人が、代わりに翻訳するつもりで
言葉にしてあげる作業が必要だというのは、
それこそイヤイヤ期の頃から感じていた
ことでした。
まだまだ表現力が未熟な分、こちらが根気よく
子どもの考えていることや感じていることを
理解する努力をしなければいけないのだと、
前の出来事に続いてつくづく思い知らされたの
でした。

さて先ほど「お迎え」と書いた通り、きなこも
翌日には無事に登園することができました。
先生がさっそく直接話を聞いてくれたそうで、
ただそれに関して本人は
「ちょっとだけね。」と言っていたし、夜には
「幼稚園で誰が助けてくれるの?」
「先生だよ~」
という会話もしているので、果たしてどれだけ
本人の中でのわだかまりが解消されているかは
わかりませんが、とにかくこちらとしては
「何か嫌なことがあったら聞くからね。」と
伝え続けて見守るしかないのかなと思います。

友達関係のトラブルなんて、まあいずれは
起こるにしてもまさか3歳で早くも…とは
我々も若干浮き足立った所がありましたが、
こういうことを経験してこちらもスキルを
身に付けていくことになるのでしょう。
先ほど「表現力が未熟」と書きましたが、
実際今回のことに関しても相手の子の言い分も
訊いたわけじゃないし、きなこがどこまで
正確に起こったことを説明できているかも
定かではありません。
でも少なくとも、そこは子どもの言うことを
信じるという前提で接することが
大切なのだろうと思います。そうでなければ、
子どもの信頼を得ることなどできません。
またそれに関して妻が、
本人が「イヤだと感じた」、そのこと自体は
紛れもなく事実だ、と言っていました。
本当にその通りだと思います。

いくら表現力が未熟だからといっても、
感じることや気持ちの部分は
大人と何ら変わるものではありません。
ただそれを置き換える言葉を知らないだけで、
子どもは子どもでいろんなことを感じたり、
いろんな感情を持って生きているはずです。
そのことを忘れずに、これからも子ども達と
きちんと向き合っていこうと思った、
今回の濃い数日間の出来事でした。

3歳児の頭の中。その1

相変わらず子どもの世話以外、これといって
何もすることなく過ぎた3連休、最終日の夜。
久しぶりに妻と深夜の会議をしました。

これまでも2人の間で何か問題が生じるごとに
自然発生的に話し合いの場が持たれ、
それによって幾度となく軌道修正しながら
ここまでやってきた我々でしたが、気づけば
あんこが生まれてからはそれが一度もできて
いませんでした。

今回きっかけになったのは、ここのところ続く
きなこのあんこに対するおちょけた態度。
要するに「ちょっかいを出す」という感じで、
手荒く体を触ったり、バカにしたような声で
名前を呼んだりと、そんなことを1日の間に
何度もやるので、それが妻にとって大きな
イライラの素になってしまっていました。
そんなきなこの謎の行動の理由がわかったよ、
というのが話の始まりでした。

ただ実は本題はそのことではなくて、
あんこが生まれて以来、子ども2人の面倒を
同時に見なければいけない妻のストレスは
いわば常に表面張力ギリギリの状態で、
それがきなこに向かってしまっているのが
見ていて痛々しいほどだったので、日頃から
何とかしたいと僕が思っていたからでした。

2人目の子どもが生まれる時というのは、
もう宿命なのかもしれませんが
やはり上の子がかなり不安定になります。
これまで独り占めできていた母親がすっかり
下の子の世話にかかりきりになるわけで、
そんなの心穏やかでいられるはずありません。
加えてあんこの繰り返される泣き声には
きなこも相当ストレスを感じているようで、
そのせいもあってか問題行動も多くなり
また妻にイライラが加算される状況です。

そんな一触即発な様子の2人を見て
また僕がいたたまれない気持ちになり、
何とか妻の負担を少しでも軽減しようと
きなこの相手や家事を買って出るものの、
結果こなさないといけない作業に忙殺され
余裕がなくなって今度は僕がイライラ、
僕が不機嫌になるのを嫌がる妻が
気遣いを僕の方に向けることでまたまた
きなこを気遣う余裕がなくなりイライラ…
という、悪循環というかむしろ家族全員が
それぞれにストレスを回し合っているような
あまり良くない日々が続いていたのでした。

今回の話し合いで、その状況をお互いが
再確認し合い、そもそも圧倒的にリソースが
足りてない前提がある以上、ある程度は
「しょうがない」と思って取り組もうという、
思えばやる前からわかっていたことを
改めて思い出すような結果になりました。
できないことはできないと割り切って、
できなかったこともできなかったからと
悔やむことなく、受け入れる。
あんこが生まれる前には
「じゃなきゃ絶対無理だよね」と
わかったつもりになっていたことが、
何となくここへ来て一番大変な時期を過ぎ、
もうちょっとこなせるような気分に
なっていたのかもしれません。

子ども達には悪いけど、我々にできることは
これで精一杯だし、もう毎日が修羅場だし、
親として毎日ニコニコ笑ってこなせるような
精神的余裕などどこにもない。それが現実。
せめて家族全員が健康で、子ども2人が
飢えることなく育っていけるぐらいが
今の僕らにできる精一杯なのだと自覚して、
もうしばらく持ちこたえていくしか
ないんだろうと思います。
それを思い出せただけでも非常に有意義な
話し合いでした。

そうそう、話のきっかけになった
きなこの「おちょける」行動の理由。
実はこれまでにも、何度か本人に
「どうしてそういう風にするの?」と
聞いてみたことがあるのですが、ただ
「やりたい気分だったの!」という
最近本人の中で大流行しているフレーズが
返ってくるばかりで、あまりはっきりは
わからないまままでした。
それがその日の夜、寝かし付けをしながら
ふと「もしかして笑わせようと思ったの?」と
聞いてみると、そうだと。

それで思い出したのが、これまでに何度か
きなこが目の前でおどけてみせた時に起きた
あんこが大笑いする、という出来事。
どうやら本人は、それを再現しようと
していたようなのです。
思い返してみると、あんこが寝覚めにワッと
泣き出した時などにも、さっと駆け寄って
そんな感じで乱暴にちょっかいを出したり
変な声掛けをしていたことがありました。
もちろんそんなことをしても逆効果ですが、
でも本人なりには泣いてしまったあんこを
何とかあやして笑ってもらおう、という
意図があったようなのです。

そのことがわかって、
「そっか。喜んでほしかったんだね」
と聞くと、再び深くうなずくきなこ。
「優しいね、ありがとうね。」と言うと
ものすごく嬉しそうな顔になりました。
繰り返される意味不明なおちょけた言動は、
3歳児の頭で考えた、妹思いの行動だったと
このとき初めてわかったのでした。

我々の2人のリソースは限られていて、
いつもニコニコしていたり希望を叶えて
あげたりする余裕などないのが現実です。
でもせめて、子どもの声に耳を傾けること、
子どもとの信頼を築いていくことだけは、
たとえいくら部屋が散らかっていようとも
いくら毎日同じような食事になろうとも
さぼっちゃいけないな、と思わされた
その日の出来事になりました。

そんなことがあった次の日の朝、
まさかの事件が勃発するのですが、
それはまた次の機会で。
続きます。

男性の育児参加は女性差別解消とセットで

■「イクメン」は根付いたか

イクメン」という言葉も広まった昨今、
男性有名人などからも育児に積極的に関わろう
という動きが数多く見られるようになり、
日本全体でも着実に育児に関わる男性の数は
増えているのだろうと思います。
若いうちから育児に関心を持つ男性が
多くなってきていることももちろん、
これまで一切関わることなく生きてきた男性が
何かのきっかけで変化してくれているのだと
すれば、それは喜ばしいことと思います。

ただ、そのような流れの中で、1つだけ
気になっていることがあります。
それは、男性の皆さんが一体「何のために」
育児に参加するようになっているか、
その理由の部分。

たとえば「イクメンプロジェクト」の活動は、
ムーブメントそのものの盛り上がりによって
参加者を増やし、潜在的な男性の行動を
喚起しようとしているように見えました。
その為にはまず「盛り上がること」が最優先で
「何のために」の部分はある程度端に置かれ、
・かっこいいから
・とにかく皆がやってるから
・それが時代のスタンダードだから
というイメージを先行させていく
取り組みのように感じられました。

実際その波に乗って、意識を変化させていった
男性も多いのだろうと思います。
そして今も一生懸命育児に邁進している男性も
きっとたくさんいるんだろうと思います。
しかし、その「何のために」が抜け落ちたまま
育児に取り組んでしまったことで、
その後「やってみたけど続かなかった」という
男性もあるいは出てきているのではないか、
という心配があるのです。

・かっこいいから
というのは、いわば今までの男性の価値観を
そのまま踏襲するものです。
つまりその方向で押し進めていくことは、
・モテるから
・人より上位に立てるから
・そっちの方が男らしいから
というように、元々男性の中にある
良いとされる価値観の延長に
ただ「育児」を持ってきただけ、ということに
なりかねないのではないか。

男性自身も、もしそのノリのままで
特にこれまでの自分と向き合うこともせず、
既存の価値観にのっとって行動だけを
変えようとしたとしても、やはり長続きは
しないのではないかと危惧しています。
「かっこいいから」という理由で始めたことは
「かっこ悪いから」という理由でやめてしまう
可能性が高いと思うからです。

実際は育児なんて地味で単調な作業の連続で、
全くこちらの思い通りになんかならなくて、
何の成果も上がらないように感じられること
ばかりです。かっこいい訳がないのです。
さらに、小さな頃から周りに
家事・育児の役割を担うことを期待され、
知識も技術も多くの蓄積がある妻に対して、
付け焼刃で始めたばかりの夫のそれが
そうそう上回っているはずもなく、
当然家庭内でのスキルの差は歴然です。
それを受け入れられない男にとってその状況は
やっぱりかっこいい訳がないのです。

育児で「かっこいいから」を理由にするのは、
現実には相当無理のある切り口だと思います。

■男性の差別意識はある前提で

そうやって考えていくと、思い至るのは
男性が持続的に育児に取り組む為には、
その前にまず自身の男性としての価値観と
向き合うことから始める必要が
あるのではないか?ということです。

その人に備わった男性としての価値観、
中でも特に「女性への差別意識」です。

以前、男性の育児参加を推進する取り組みを
している方が、「女性が言ってもなかなか
聞いてもらえないことも、同性からの声だと
意外にすんなり耳を傾けてもらえる」という
発言をされていたのを見たことがあります。
なぜ、そのようなことが起こるのか。
それは男性の側に
「女性の声は聞く必要がない」
「女性の言っていることは聞きたくない」
という意識があるからではないのか。
話の内容云々以前に耳を塞いでしまうのは、
そもそも「誰が発言しているか」によって
対応を変えているということであり、
それが即ち「差別意識」ではないのかと
思うのです。

文献を見る限り、確かに日本には古くから
男尊女卑の価値観が存在していました。
中でも高度成長期には、男性を賃労働、
女性を家庭での仕事に専念させることで
効率を高めようとした流れがあり、
それによって「外の仕事は男が担うもの、
家の仕事は女のもの」という考え方が
強化されていった歴史があるようです。

今もその考えは残っていて、多くの男性には
女性を自分より下に見る意識とともに、
女性が担ってきた仕事、つまり家事や育児は
自分達の仕事より劣る、という考えが
なお根強く身についていると思われます。
もちろん、それはその人自身の責任でも
何でもなく、社会全体がそのような価値観を
子どものころから押し付け、植えつけてきた
結果として、歴史的事実としてそうなのだろう
というだけの話です。

そして、男性にはそういう意識が自分の中に
あるという認識すらない人もいるでしょう。
生まれた時からそうなっていて、
だからといって別に何の不都合もなく、
周りを見てもその考えに疑問を抱かせる
ようなものも何もない状態であれば、
わざわざ「自分は差別をしている」なんて
意識する必要もきっかけもないと思います。
というより「かっこいい」に代表される
「男らしさ」の中に、そもそも女性への蔑視が
含まれてしまっている以上、むしろ
「男らしくあれ」という教えに忠実な人ほど
その意識が体の中に自然に備わって
いるのではないか、と思えるほどです。

だからといって、そんな感覚を持つ男性が
そのまま「ありのまま」の状態で
育児に手を出すのは、やっぱり不安です。
それは男性自身にとってというより、
育児の分野そのものにとってもです。

■差別意識から解放されると

もしこのまま男性が、「かっこいいから」
「モテるから」「上位に立てるから」という
旧来の「男らしさ」に疑問を持つこともなく
育児に参加するようになっていくと、
どんなことになるのでしょうか。

仮にそういう男性がどんどん入ってきて、
「こんなのおかしいよ」
「もっとこうできるだろうよ」
「俺達が変えてやるよ」
と強い力でどんどん育児の現場や周辺の環境を
変えていくような流れができたとして、
果たしてその末に出来上がるのは
本当に誰にとっても素晴らしいものなのか。
「男だけに都合の良い育児環境」に、
なってしまいやしないだろうか。

考えすぎかもしれませんが、
今の日本において、政治やビジネスの世界は
完全に男性中心で回っています。
そこへ「子育ての世界もかっこいいぞ」という
イメージをただ作り上げることで、
そこすらも男が中心になって回していく世界に
なってしまわない保障はどこにもないのです。

相変わらず女性が置いてきぼりの、
ただ活動のフィールドが変わっただけの
「男性中心の社会」を作らせないためにも、
育児に入ってくる男性の価値観をきちんと
見極めていくことは必要だと思います。

そして逆に考えれば、もしその人の内にある
差別意識を捨て去ることができたならば、
現に女性中心で取り組まれている育児の世界に
入っていくことへの抵抗感もなくなり、
「かっこいい」にこだわる必要もなくなり、
女性達の言葉が素直に聞けるようになり、
「これは自分の仕事じゃない」といちいち
悩む必要もなくなり、誰よりその人自身が
楽になれる…かもしれない、そんな可能性が
開けてくるのではないかと思うのです。

そうなれば、純粋に子どもの育ちに目を向け
られるようになるだろうし、男女で協力して
問題解決に当たれるようにもなるだろうし、
そもそも「かっこいいかどうか」なんてことを
いちいち理由付けする必要もなくなる。
女性への差別が良くないことは
今さら言うまでもないとして、もっと言うと
「男らしさ」についても育児をする上では
正直「邪魔なもの」でしかないのではないか、
ということになります。

ということで今まさに育児に関わっている
男性の皆さん、
「妻にやり方を指摘されると何かムカつく」
と感じていませんか?
これから育児をやってみようかなと思っている
男性の皆さん、
「こんなもん自分なら余裕でできるはずだ」
と感じていませんか?
はたまた現時点では育児に全く興味のない
男性の皆さん、
「これはそもそも自分のやる仕事ではない」
と感じていませんか?
そういうような感覚があるとしたら、
まず自身の中に女性そのものに対する
差別意識がないかどうか、いま一度向き合って
考えてみてほしいと思います。
そうして自分の内面に気づくことができたら、
それは本当に今の自分に必要なものかどうか、
仮にそれを捨て去ったら一体どうなるのか、
想像してみてほしいと思います。

■社会全体で取り組む問題として

とはいえ、既に自覚できないほど体の中に
差別意識が染み付いている状態で、
そう簡単に考えを変えることなど
できるはずがないのもまた現実と思います。
また男性に限らず、日本人全般に見られる
自尊感情の低さ、「基本的自己肯定感」の
形成されてなさを考えると、
これまでの自分と向き合うという行為は
今以上に自らを否定することにもつながり、
変化に対する恐怖が先に立ってしまう人も
きっと多いのだろうと想像できます。

だからこそこのことを、社会全体が
ちゃんと考えなければならないと思うのです。
社会の構造が、男性の差別意識を生み出した。
だとすればこの問題に取り組み、
解決していく責任は社会にあると思います。
決して男性だけの個人的な問題にしないこと、
そしてもちろんそんな夫を持つ妻に
全てを押し付けて済ませるようなことをせず、
社会問題としてきちんと全員が
目を向けることこそが、第一歩だと考えます。

ここで書いていることは全て、何の専門的な
知識もないただの素人の想像なので、具体的に
「こうすれば差別はやめられる」というような
素敵な解決策を提示できる訳ではありません。
でもきっとどこかできちんと、男性の女性への
差別を生み出す社会的メカニズムについて、
学術的な研究がなされているはずです。
その取り組みがもっと進み、実態が解明され、
対応策も確立され、世間に周知されていって、
それが一人一人の心に根付いていくことが
きっと問題解決への道すじなのでしょう。
我々にできるのは、その後押しをすること。
まずそれが社会全体で解決すべき問題なのだと
認識してもらうために、一人一人が声を
上げていくことなのだろうと思います。

「差別は、する側の問題である」
という話を先日聞きました。
その大前提を忘れずに、
かといって誰かのせいにするのではなく、
でも問題はしっかりと解決されるように、
前向きで建設的な議論と取り組みが
なされていくことを願います。

■選択肢の多い社会になるために

私個人は、男性にもっともっと育児に
関わってほしいと思っています。

それは、現実に育児の現場の人手不足、
つまり育児は母親が一人でこなせるような
生易しいものじゃないという実感もあるし、
一人ではなく多様な人格が関わることが
子どもの育ちにとっても母親の精神衛生に
とっても、良い影響があるだろうという
思いがあるのもさることながら、それ以上に
今のような母親にばかり育児の責任を
押し付ける社会であり続ける限り、
女性が一人一人の自由な生き方を
選択することがかなわないからです。

そして同時に、それは男性にとってもやはり
「育児に関わる権利を剥奪されている社会」
でもある訳です。
ただひたすら働き続けること以外に、
人生の選択肢がないこの社会が嫌なのです。
もう少しバランスよくしたいのです。

今までどおり仕事に専念したい人は変わらず
そう生きられるような、だけど仕事よりも
家のことや子育てにもっと関わりたい人も
同じようにそう生きられるような、
そういう社会であってほしいのです。

だから別に男性に、無理をしてまで
育児をやれというつもりはありません。
むしろ、「俺は育児なんかやりたくない」も、
「男らしさにこだわりたい」も、
胸を張って言ってもらえたらと思います。
男も女も、やりたい人がやりたいことを
やれるのが一番いい。
もちろん現実にはそんなことできっこないのを
わかった上で、でもそれを理想形にして、
じゃあ現実にはどこに落としどころを
持っていけばいいんだろう、そんなふうに
考える流れであってほしい。
誰かが得して誰かが損をするのを、
前提にする世の中であってほしくない。
そういうことで、男性の育児参加も
進んでくれたらと思っています。


最後に、ここからはもう理屈でなく感情で
と断っておきますが、
せっかく縁あって夫婦になって、
しかも子どもまで持つ選択をしたのなら、
やっぱり二人で密にコミュニケーションを
取ってもらいたいし、
互いに協力し合う体勢を作ってもらいたいし、
対等なパートナーシップを築いてもらいたい。

夫だって言うんなら、目の前の妻が何を考え、
どんなことに悩んでいるか、興味持とうよ。
もし妻が死ぬほど苦しんでるなら、
つべこべ言ってないで、動こうよ。
何のために夫婦やってんだ。
好きだからじゃないのかよ。
かっこ悪いくらい何だよ。我慢しろよ。

って、思います。

一旦はおぼえておくべき「ルール」

最近のきなこにとっての幼稚園は、まだまだ
「楽しいもの」にまではなっていないのか
反動で週末のテンションがすごいですが、
ただ少なくとも「行かなきゃいけないもの」
としては受け入れられるようになったらしく、
朝もさほど困ることはなくなりました。

逆に、毎日のように新しい歌を覚えてきたり
栄養のことについて教わってきたりと
なかなか我々だけでは対応しきれない
いろいろな新しいことを吸収してくれるので、
やっぱり何だかんだ言いつつ
そういう場に行かせてもらえていることは
助かるなぁと感じています。

そんな中、この土日にきなこは家で
「じゃんけん」のルールをおぼえました。
これまでも「じゃんけん」という名前と
グー・チョキ・パーというものがあること
くらいは認識していましたが、今回改めて
何がどれより強いのか、「あいこ」の存在、
また一度出した手は変えられないことなど、
勝敗が決するまでの一連の流れと
詳細なルールを理解しました。
そして本人も楽しさを実感できたようで、
今日も「じゃんけんやろう」というと
その度に喜んで付き合ってくれました。

これは単なる「遊び」としてのルールを
おぼえた、というだけの一例ですが
彼女はこれから先、本当にいろんなことを
社会のルールとしておぼえていかなければ
なりません。
それはもう既に身についている生活習慣や
交通ルール、そして今まさにおぼえつつある
集団生活での決まりごとなど、様々な分野で
パッとは思いつかないくらいの膨大な数を
長い年月かけて理解していくことになります。

そんなにたくさんのルールが一体
何のためにあるかといえば、それはおそらく
この「社会」という共同体において、
それぞれの人がお互いストレスなく
円滑に過ごしていけるようにするため。
あらかじめそれらの決めごとを、相互に
理解しているという前提があるからこそ、
道路でもお店でも幼稚園でも、困ることなく
スムーズに動くことができるのです。
だからこそ、こんなに苦労してあれやこれやの
ルールを身に着ける必要があるのです。

正直、中には「そのルールおかしいだろ」
というものもきっとあるでしょう。
例えばトイレの案内マークはなぜ、
男性が青で女性が赤なのか。
そんなのはイメージの押し付けじゃないかと。
でも、日本のどこに行ってもその色分けが
なされていることで、一瞬で自分の入りたい
トイレを認識することができるし、
そこで不要に脳を働かせて悩まなくて済む。
まずはとにかく「そういうルールがある」
ということを知っておくことが重要で、
さらにそれが何のどんな目的で作られて
いるものなのか、そこまでわかってくれば
案外納得できるものは多いのではと思います。

でもそこまでわかった上で、なお本人が
「そのルールはおかしい」と思うのであれば
それはこちらも止めません。
誰かを傷つけたり自分自身が危険に遭うような
ことでない限り、そこは本人の判断において
反抗なり無視なりすればよいと思います。
むしろ多少のリスクくらいなら、
こちらも親として一緒に負うつもりです。

そういえば本人は最近ピンクが大好きで、
ちょっと前まで好きだった黄色から
すっかり興味が移ってきています。
これも、世の中にこれだけ女の子向けのモノが
「ピンク」を中心として提供されている中、
一度は通る道なのかもしれません。
一旦「女の子向けのはピンクである」という
今の日本でのルールを本人の中で通過させ
噛み砕いた上で、「でもやっぱり私は
こっちの色が好きだからこの色を選ぶ」
という所まで行けたなら、自信を持って
その色を選んでもらえたらと思います。

というよりむしろ、普段から
「らしさの押し付け」に関しては
非常に敏感な我々夫婦なので、逆に本人が
ベタな色を選びたいと言っているのに対して
「こっちの色の方がいいのに」などと誘導して
しまわないよう気をつけたいと思います。