シーホースとナッツ

長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育て中に考えたこと、の保管場所。

やめます。

よしお兄さん&りさお姉さん卒業のニュースが
世界中を駆け巡った今週。
僕もこの度、このブログの更新を
今回限りでやめることにしました。

ここ数年はずっと週に1回のペースで
何かしら書いてきましたが、
正直毎週毎週休みの日の最後の夜に
そのための時間を確保するのがしんどいなと
感じていました。
実際先週も「別に大して書くことないな…」
なんて思いながら何とかひねり出していて、
果たしてそこまでしてやる意味はあるのかと
疑問を持ち始めていました。
だったら無理してまでやらない方が健全だなと
判断して、やめることにしたという次第です。

元々は妻の出産に先だって「自分は記録係を
やろう」と始めたものでしたが、
気づけば7年半もやり続けてきたので
大したものだと思います。
もちろん子育てはこれからも続いていきますし
今まで以上に大変なことがたくさん起こって
いくんだろうと思います。
それをどこかに記録しておきたいという
気持ちもありますが、それはその時に
何か考えればいいかなと思っています。
今の時代、方法はいくらでもあるし。

過去の記事も「これは残しておこうかな」と
思えるものだけにして、あとは消しました。
今後はまた長文で何か書きたくなった時に
ふらっと戻ってくるかもしれませんが、
基本的には放置することになると思います。
こんな個人的なブログ、何か役に立つのなら…
と公開し続けてきましたが、
もし継続して読んでくださっている方がいたら
今までどうもありがとうございました。

最後に。
14年間にも渡って子どもと向き合うことを
続けてこられたよしお兄さんを見習って、
今週は極力「子どもにイライラをぶつけない」
「急かさない」を意識して過ごしてみました。
自己採点で80点ぐらいしか達成できなかったし
ずっとこれを続けるのは到底無理なんだけど、
いくらかは子どもを傷つけることの罪悪感から
逃れられたような気がします。
これからもたまにだけでもこうして、
受けたストレスを子どもに向けるのではなく
どこか別のところで処理できるような訓練は
続けていきたいと思います。

相変わらずこの社会の、子ども達を取り巻く
そしてそれを育てる親達の置かれた環境は
非常に厳しい状況が続いていますが、
改善するのをただ待っているわけにも
いかないので、とにかく目の前のできることを
一つ一つやっていくしかないですね。

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いつか子育ても、このブログみたいに
「あー終わった!」って笑って言える日が
来ることを願って。

ひどいことをした

この週末も大変削れました。
子ども達の週末への期待値が高いせいなのか、
とにかく要求が嵐のように襲ってきて
しかも瞬間湯沸かし器的に発生するので
いちいちそれに同じ温度で対応していたら
とても身が持ちません。
上手く温度が下がるタイミングまで
いなす技術がもっと必要だなぁと思います。

ところでここの所、あんこの「拒否力」が
とんでもないレベルになっていて、
否定語のバリエーションがものすごく
ちょっとこっちが要求を出すと
たちまち「も~イヤだ!」と返してくるので
それはこっちの台詞だよ…ということが
一日に何度もあります。

そんな火曜日のこと。毎度のごとく
お風呂に誘っても拒否されまくり、
やっとのことで脱衣所まで来させて
「これとこれ持って行く~」と
オモチャの選定までしたにもかかわらず
急にまた頑なになってしまい、
さすがに時間的にも限界だったので
無理矢理脱がしてお風呂に連行したのですが、
これが大いに泣かれまして。

そのことで、それから数日
ずーっとクヨクヨしてました。
もちろん、やむにやまれぬ事態だったとは
思うのです。
いつまでも子どものグダグダにつき合い
続けることなんてできないし、
大人の側にも都合があるし、
理屈で説明してわかってくれるような
発達具合でもないし。
だいたいきなこの時なんかもっとしょっちゅう
お風呂がイヤだと渋りたおす本人を
強制的に連れて行って泣かれてたものでした。

ただそうやって無理矢理大人の力でもって
強制的に事を運ぶことは
「ひどいことをしている」のだ、という自覚は
持ち続ける必要があるのだろうと思います。
これをやるのを「当然のことだ」と
思ってしまわないこと。
この申し訳なさ、後ろ暗さをちゃんと自分で
引き受けていかなきゃいけない。

そして、きなこの時よりその回数を
減らせていることと、
それがひどいことだとその頃以上に思えている
その感覚のアップデートができている事実を
むしろ良いことだと捉えて、
なるべくそれを避けられる方法をこれからも
ひねり出していこうと思うのでした。

ひとまず次の日のお風呂の前には本人に
昨日はゴメンねと話し、
無理矢理はやらないようにがんばることを
伝えました。
削れる量を最小限にしつつ
ひどいことをしないで済むように対応するのは
やっぱり大人の側の役目かなぁと思うのです。

「やっといた方がいいんだろう」が奪うもの

先週断念したきなこのインフルワクチン
一週遅れで無事に接種できました。
本人の中でメリットデメリットの整理ができた
ようで、自分から言い出してのことでしたが
いざ注射器を前にした時はやっぱり恐怖で
暴れそうになったので、改めて本人なりの
感じ方というものを実感したし
本当に無事に終わってよかったなと思います。

一方学校では、運動会が終わったと思ったら
今度は学芸会の練習が始まっているらしく、
相変わらずやることで埋められている感じが
子ども達は大丈夫なのかなと心配になります。

本当にみんな、こんなにも「やるべきこと」の
洪水が必要なんだろうか。
そこまであれこれ課題をこなし続けないと、
子ども達は成長できないんだろうか。
そんな思いがあって、先日Twitter
下のようなつぶやきをしました。


もちろんこれはなんの裏付けもない
素人の思いつきですが、ただまあ
「嫌々やらされることより自分からやりたいと
思ってやったことの方が身につく」というのは
割と誰でも実感として持ってることなんじゃ
ないのかな…と思います。
実際北欧の小学校などでは、まずその日に
やりたいことを子ども達が一人一人
自分で決めてから取り組むということを
やっているそうです。
だからむしろ、じゃあ何でそうできないのか、
なぜ我々は子ども達に「やりたくないことでも
やらせなきゃ!」と思ってしまうのかを
考えた方がいい気がします。

たとえば「すくすく子育て」なんかでも、
寄せられる育児の悩みのたいていは
大人の側の心の問題だったりするわけです。
「うちの子は○○が平均よりできないようだ、
このままではこの先…」みたいな感じで。
そんなの「平均」という言葉の意味を考えれば
ほとんど半分の子は当てはまるんですよ、と
いう話になるんですが、それでもあんなふうに
すごく大変なことだと感じた人達が
日々あの番組を頼ってやってきている訳です。

その不安を感じるなと言うことはできないし、
実際我が家だってあんこの言葉の遅れに
全く不安がないといったら嘘になります。
ただ、その気持ちの膨らみが、
学校における「とりあえずやっといた方が
良さそうなことは全部させる」という姿勢に
繋がっているのではないか、
我々は子どもに際限なく課題を与えることで
自分達の心の安定を図っているのではないか。
そういう疑問があったが故に
ああいうツイートになったような気がします。

私達が不安を感じるのには当然理由があって、
それは自分達自身がこれまで生きてきて
こういうことで苦労したから、それを味わって
欲しくないという思いもあるでしょう。
また先ほどの北欧の例でいえば、たとえ
どんな育ち方をしたとしても
少なくとも生きていくのには困らないはず、
という社会制度への信頼もあるのでしょう。
だから別に「やりたいことだけやらしときゃ
いいんだ」なんてことは主張しませんし、
そこはバランスでしかないと思います。

ただせめて、そこは常にチェックする癖を
つけておきたいな、と思うのです。
我々はつい「やらないよりはやった方が
いいんだろう」という雑な感覚で子どもに
いろいろやらせてしまいがちという前提で、
それが単なる大人の側の不安を紛らすための
ものになっていないかどうか。
そして、子どもがそうやって
「やりたくないのにやらなきゃいけないこと」
に費やした分だけ、本来なら彼ら自身が
「やりたいこと」に使えたはずの彼らの人生の
貴重な時間は削られているんだ、という感覚は
どこかに持っていたいなと思うのです。

別に全てに備えて今のうちからあらゆることを
経験させておこうなんてしなくても、
本人が必要だと思えば後からだって
そこに労力をかけて身につけようと思うはず。
それくらいの信頼を持って接したいし、
そんなふうにできる社会であることが
理想だな、と思います。

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その後、「がんばりポイント」も順調に
運用されています。
「2ポイント100円で新しいゲームの購入に
使える」というルールをつけたことで、
その時々でプレイ時間に使われつつも
基本的には貯める方向に行っているようです。

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がんばりポイント

この週末は、小学校の運動会がありました。
きなこは1回も練習に参加してませんが、
様子だけは見に行きたいということで
あんこも連れて行ってきました。

が、会場の人の多さと、ちょうどやっていた
かけっこのピストルの音がダメだったらしく
滞在5分ですぐその場を後にしました。
このリアクションがヒントになると思うので
後日学校にフィードバックしたいと思います。

今回はじめて学校の運動会に行ってみて、
周りからわらわら人が集まってくる感じが
ああ地域のお祭りみたいなものなのだな、
という印象を受けました。
これだけの人数が押し寄せるイベントを
先生やPTAだけで回すのはたぶん無理なので、
おそらく相当数の地域の人達が
協力して成り立っているのでしょう。
皆さん本当にお疲れさまですという
気持ちと同時に、はたしてそれだけの
大規模なものにする必要がどれだけあるの
だろうか、とも考えてしまいました。
いったい誰のためのイベントなんだろう、
子どもががんばる姿を見たくてしょうがない
っていう感覚とはどんなものだろう、
みたいなことをぐるぐると。

物語なんかで、主人公がミスをして
ピンチに陥る、というような展開が
我が家は親子揃って苦手なのですが、
個人的には登場人物に災難が降りかかって
困難な状況を何とかがんばって乗り越える、
みたいなものも年々ダメになってきています。
特にそれが子どもだったりするとなおのこと。
娯楽としてそういうものが求められるのには
どういう心理があるんでしょうね。

そういえば、今日たまたまテレビで出てきた
「根性」という言葉の意味を聞かれたので、
「すごく無理をして本当はないはずの力を
ムリヤリ出すことだよ。まああんまり
いいことじゃないねぇ。」と
説明しておきました。
少なくとも、他人からそれを強要されるのは
決して望ましいことではないと思います。

がんばるということで言うと、相変わらず
お風呂にしろ歯磨きにしろ食事にしろ
きなこの「めんどくさい」が強すぎて
毎日のようにやりたくないでもやるべきか…
という間でウンウン悩んでいるので、
一方で毎日「早くゲームやりたい、もっと
やりたい」と言っているし、それならそれを
モチベーションにしてみたら?ということで
「がんばりポイント」というシステムを
提案してみました。

やりたくないけどやった方がいいことを、
自分なりにがんばって出来たら1ポイント。
溜まった分は1ポイントを5分に換算して
好きな時に普段のゲーム時間に上乗せできる。
ついでにママの家事を手伝っても1ポイント。

最初説明した時は、そうやってポイントを
溜めること自体がめんどくさい…と
言われましたが、システム導入のサービスで
初回に2ポイントつけるというで話をしたら
乗ってきたので、早速やってみることに
しました。
そんなにガチガチの運用をするつもりはないし
こっちからそれを餌に迫るつもりもないですが
本人的に悩んでしまった時の後押しになれば…
ということでとりあえず始めてみます。

で、さっき寝る前には「そのポイントは
ゲーム時間以外にどんなことに使える?」と
想定外の質問が来たので、軌道に乗るようなら
いろいろと考えていきたいと思います。

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今週、僕らが9回目の結婚記念日だと聞いて
きなこが描いてくれたお祝いの絵。
毎日特に何もいいことがないと、こういうのが
ご褒美になったりするのだなぁという気持ちも
わかるのですが、でもこれを子どもに対して
求めてしまうのも違うよなぁと思うのです。

自分の心のケアは自分でできるように

ここの所、大変な災害が立て続けに起きて、
毎日ちょっと気を抜くと泣いてしまいたく
なるようなニュースがどんどんテレビから
流れてきます。
とにかく、被災地の方々には一刻も早く
心の平穏と生活の安定が戻ってくれることを
祈るばかりです。

そんな中、特に被災者でもない私たちが
今すぐにできること、そして結構やった方が
いいんじゃないかなと思っていることが、
「ちょっとでも優しい気持ちで
いられるようにすること」です。
優しい気持ちでいられるということは、
それだけ自分の気持ちの中に余裕がある
ということなので、つまり私たちはなるべく
自分の気持ちに余裕を確保しておけるように
意識して過ごしてみてはどうか、
と思っているわけです。

ニュースを見て、たとえ自覚できていなくても
私たちは少なからず心にストレスを
受けているんではないかと思います。
まずそのストレスの存在を認識してあげて、
自分に合った方法で対処をしてあげること。
ストレスの原因になっていること自体から
離れるのが難しいのであれば、何か別の形で
埋め合わせできるようにしてあげること。

それを自覚できないままで放っておくと、
たとえ見えないようにしたところで
それ自体が消えることはないので、
結局はどこかで何らかの形で出てきます。
自分の中で何とかできなかったそれは、
「誰かに何とかしてもらう」という方法に
頼るしかなくなるわけですが、
自覚できていなければ当然その「誰か」に
正しい対処法を求められるわけもなく、
「とにかくこのモヤモヤをスッキリしたい!」
という方向になってしまうんだろうなと。
マイナスな感情を上手く言葉にできなくて
ついクラスの友達に乱暴してしまう子どもと、
図式としては同じです。

さらに良くないことに、そうやって
何とかしてもらおうとする「誰か」とは、
たいていが自分にとって言いやすい相手、
たとえば子どもだったり女性だったり
外国籍の人だったりといった、
社会的に立場の弱い人達が選ばれがちです。
要するに、その人達に自分のストレスを
擦り付けることで解消しようとしてしまう。
そういう事態になることを避けるためにも、
これだけ大変なことが周りで起きている
今だからこそ、改めてまず自分の中にある
ストレスの存在と、それが生まれる原因を
しっかり見定めておこうと。
そう意識していないと、知らず知らずのうちに
誰かを傷つけてしまいかねないなと
思ったのです。

実際問題、普段から私たちはそのことが
あまり上手にできていないのではないかと
思うことがあります。
たとえば国に対しても、「誰か何とかして」の
「誰か」を求めてしまっていないだろうか。
もちろん自分達の生活環境の改善や、
きちんと復興がされるように資金や人員が
割り当てられていくように求めていくことは
何もおかしいことではないのですが、
自分達が自覚できていない精神的ストレスの
ケアを国に求めてしまうということは、
結局は「一時的なスッキリ」を国に対して
やってもらうということにしかならない
のではないかと。
みんなが「とにかく目の前のモヤモヤから
目を逸らさせてくれ!」と求めて、
国としてもそれに応じるように動いた結果が、
つまりはやたらとでっかいお祭りをやったり、
さっき言ったような弱い相手に擦り付ける
みたいなことを一緒になってやろうとしたり、
何故かやたらと攻撃力を高めるための道具を
たくさん買い込もうとしたり、
国の基本ルールをむりやり変えようとしたり、
そういうことになっているんじゃないかと。

そんな感じの「スッとする」ことにばかり
コストを持っていかれないためにも、
私たちはせめて自分自身の心のケアぐらいは
自分でできるようにしておく必要が
あると思うのです。
実際やることは別に難しいことではなくて、
たとえば普段よりたくさん休憩を取るとか、
いつもより長めに寝ておくようにするとか、
この際だから普段より豪華な食事をするとか、
ちょっと欲しかったけど買わずにいたものを
思いきって買っちゃうとか、
そんなことでいいんだろうと思います。

自分のできる範囲で、自分にあったやり方で、
自分がいま何にストレスを感じていて
どうすればそれに対処できるかという
心のケアが皆それぞれにできるようになれば、
もうちょっと余裕を持って、
優しい気持ちで過ごせるようになって、
これまでそこに使っていた分のコストを
いま必要なことに振り分けることが
できるようになるんじゃないかなと思います。

子どもを死なせたくないと思うなら

今週、熱中症で亡くなった1年生の子の
ニュースに打ちのめされ、
いまだにダメージから立ち直れないでいます。
子どもがひどい目に遭うニュースは
気持ちに余裕がない時はあまり触れないように
しているのですが、今回はそれではいけないと
できる限り向き合って戦いました。
それはこの事件の「ひとごとでなさ」が
あまりに大きかったからかもしれません。
はたまた今回起こってしまったことが、
自分の中で持っていた問題意識とあまりにも
合致してしまったせいかもしれません。
とにかく、気を抜くと泣きそうになるのを
何とか抑えながらたくさん考えてきました。

学校という場に対する疑問や不満は、
もちろん今に始まったことではなく
入学前からずっと持ち続けてきたし
自分なりに発信してきたつもりです。
実際中に入ってみて、自分の子どもが
2ヶ月足らずでそこに通えなくなるまでの
学校側とのやりとりを経験してみて、
現場がどういう意識でいるのか、
なぜそういうやり方になってしまうのが
さらに詳しく見えてきて、
そもそもの問題は学校だけにあるのではなく
それを取り巻く社会全体にあること、
我々一人一人の意識にあることが
何となくわかってきました。
というよりむしろ、私達自身が
「学校にそうさせている」と言ってもいい位の
状態ができてしまっているのだと思います。

子どもをどう育てていったらいいんだろう、
というとても漠然とした問いに直面した時、
何となくみんなの中で
「とにかくちゃんとやれること」
「何事も真剣に取り組めること」
が良いこととされて、何となくみんなが
そっちの方にシフトしていってしまった。
その結果、少しバランスが悪くなってしまって
いるのではないのかなと。
はたしてそこで、
「ちゃんとやらないこと」
「手を抜くこと」の大切さについて、
どれだけ目を向けられていたか。

親にしろ先生にしろ、一生懸命になれば
なるほど子どもを駆り立て、追い詰めてしまう
というリスクをどれほど意識できていたか。
子どもには、いろんなタイプがいます。
そこに対して「言うだけは言っとこう、
何しろできた方がいいことなんだから。」
という感覚で投げかけをした場合、
100言われたことを100受け止めてしまう子は
とんでもない重荷を抱えることになります。
相手がどの程度の受け止め方をするかも考えず
とりあえず「良いこととされること」を
ぶつけていった結果、あり得ないレベルの
要求に膨らんでしまってはいないか。

そしてそれは、大人から子どもへだけでなく
その子どもを育てる役目をしている
親や先生たち自身への要求となって
社会から押し寄せているのではないか。
求める側は「どうせ100返ってくることなんか
ないだろう」という軽い気持ちで言ったことが
気づけばとんでもない重さになって
現場に叩きつけられている、そんな事態が
起こっているような気がするのです。

だからいま必要なのは、
そのバランスを立て直すための
反対方向の声なのではないかと。

子どもには、なるべくいろいろできるように
なることも大切だけど、だからって休んだり、
楽をしたり、失敗したり、やりたくなくて
投げ出したり、そんなの嫌だと声を上げたり、
立ち止まって考えたりするのも
やっぱり必要で大切なことなんだよ、
という声。

無理をすればどこかに無理が出るし、
不満をため込めばいつかどこかで噴出するし、
むりやり我慢させられればその分あなたの
心の大切な何かが封じ込まれていくんだよ、
という声。

そしてそれは、子どもだけでなく
私達自身にも同じように投げかけられるべき
言葉であろうと思うのです。
「子どもを育てる仕事」は、
そこにかけられる要求も大きくなりがちです。
こうなって欲しいという願いが大きければ
大きいほど、課せられる重荷も際限なく
重くなっていってしまいがちです。
でも、子どもを育てる上で、
子どもが安心して過ごせる上で
何が一番必要かと言ったら、
それは大人の側の余裕だろうと思うのです。
それが現場にいる人間としての実感です。
そのことを、理想を求める声に対して
ぶつけていって、気づかせていく必要が
あると思っています。

ただ、とかく弱い者にしわ寄せするこの国で、
親といえば母親とされるような偏った
この社会において、女性という立場で
声を上げることの難しさはいくら想像しても
しきれないものがありますし、
学校という場で仕事に忙殺され
生活を人質に取られ、板挟みになっている
現場の先生達の状況も理解できます。
だからこそ、今の自分の立場でできることが
見えてくるような気がしています。

これだけ差別や支配がこの社会の基盤に
根付いてしまっているのは、
立場の弱い人間を自分の思い通りにすることの
気持ちよさだったり、自分が抱える不満を
立場の弱い人間に擦り付けることの
たやすさに原因があるのだろうと思います。
そういった手段に手を染めなければならない
私達一人一人の状況も、きっとこんなふうに
子どもの頃から育てられてきたのだろうことを
思えば、想像できないことはありません。

でも、そうやって他人を自分の理想どおりに
したくてしょうがない人達を喜ばせてあげる
必要なんてないし、誰かをその人のストレスの
はけ口に使わせてやる必要もありません。
その人が受けた傷は、何よりその人自身が
報われることで解決すべきです。
常に誰かが誰かの慰み物であるという状態は、
もうそろそろ脱していくべきです。

それが、圧倒的に弱い立場にいる子ども達が
これ以上つらい思いをしないで済むための、
立場の弱い者が保護され、誰もがその人自身の
尊厳を守られる社会にしていくための、
一つの道筋であろうと思います。

子どもを死なせたくないと思うなら、
子どもに幸せになって欲しいと願うなら、
まず大人である自分達がいま抱えるもの、
自分達がこれまでため込んできたものと
向き合う勇気を。

「ひといちばい敏感な子」

数ヶ月前にその言葉を初めて知ってから、
何となくこれなんじゃないかなぁと
2人で予想を立てていた「HSC」。

今回、それについて書かれた本
「子育てハッピーアドバイス」のシリーズで
出るというので、楽しみにしていました。
このシリーズ、私達2人が子を持つよりも前に
自分自身と向き合う上で非常に助けられてきた
我が家になくてはならないものだったので、
まさにきなこが学校に行けなくなった
このタイミングでの発売に、またもや
助け船になってくれるのではないかと
大いに期待をしていたのでした。

読んでみて、一言で言えば
「ビンゴ」だったな、と思っています。
HSCの特徴として例示されているものに
あまりにもきなこが当てはまっていて、
そのまますぎて笑ってしまうくらいなものも
いくつも出てきました。
この6年間で「難しいな」と感じていたことの
いろんなことがこの本に書かれているような、
それくらいの実感を持っています。

そしてさらには、そこに書かれていた特徴は
親である自分達自身にもかなりの確率で
当てはまっていたのでした。
要するに、親子3人そろってどうやら
HSP(Highly Sensitive Person)でした、
という話だったようです。
何というか、そりゃあこの2人から生まれれば
そうなるかーという感じで、
ちょっと割り切れた所はありました。
これまで1ヶ月くらい、幼稚園の
登園拒否の頃から考えれば約1年近く、
何が正解なのか、どうすればいいのか
わからないままあがいていたのが
ようやく少し納得できたような気がします。

ただ、そのHSCの特性が表れる強さは
きっと人それぞれバラバラなのだろうし、
そもそもここに書かれている特徴は
誰だって1つくらいは当てはまるんじゃないか
とも感じたのでした。
本には人口の2割ぐらいとあったけれど
それは明らかにHSCであると言える人だけで、
本当はもっとたくさんの人がそういう部分に
多かれ少なかれ生きづらさを感じながら、
それでも何とか周りに合わせるために我慢して
自分を押し殺して生きてきたんじゃ
ないだろうかと感じてしまったのでした。

たまたま我慢してしまえる程度だった。
もしくはとてもそんなつらさを
口にできるような環境じゃなかった。
そういう人達の声は表に出ないまま、
この社会はいろんなものを無視してきた。
今日この日にも、本当はたまらなく嫌な思い、
逃げ出したい思いを抱えながらギリギリで
学校に行っている子どもがいるかもしれない。
彼らの声を聞こうという姿勢にどれだけ
なれているのか。
一種類の人間しか想定しない社会、
一種類の教え方しか用意しない学校の
在り方そのものに無理があるのだという
起点に立たなければならないのではないか
と思います。

とはいえ、さし当たり今現在学校に
行けていない我が子の対応を考えなければ
なりません。
これまで自分達の知識が足りず、
誤った対応、よくない言動をたくさん
ぶつけてきてしまいました。
入学からここまで、こちらからは見えない
たくさんの努力と我慢をしてきたのだろうと
思います。
だからこそ限界が来てしまった。

本の中にも、手が掛かるということは
それだけ本人がそういう自分を出せる環境だと
思っているから、という話がありました。
今回学校に行きたくないとはっきり意思表示を
してくれたことをむしろ喜んで、
今後彼女がどうすれば安心して勉強ができて、
どうすれば小学校で身につけるべき知識を
蓄えていくことができるのか、
具体的な手だてを打っていきたいと思います。
取り急ぎ、来週には学校でそういった話を
する機会が持てそうなので、
その際にはぜひ今回のこの本を持ち込んで、
うちの子の特性について理解してもらう
一助になってもらえたらと思っています。

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まだまだこれからだけど、心が晴れたという
実感はあったような気がします。