シーホースとナッツ

長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育て中に考えたこと、の保管場所。

尊厳を削る場所

学校が始まって1週間が経ちました。
タイトルは、今の時点で学校という
場所に対して感じていることです。

ともかく、きなこが無事に1週間
学校に行けたことを喜びたいと思います。
月曜の朝は本人もずいぶん早く起きてきて、
穏やかながらも緊張感が漂う中で準備が進み
結果ずいぶん時間が余ってしまってからの
登校になりました。
帰ってから「楽しかった」という言葉が
出たと聞いた時は正直ほっとしたものです。

とはいえ初めてのことの連続で緊張もするし
疲れもするはずで、最初こそ気合いで何とか
していたのかもしれませんが、それも尽きた
水曜の朝には早速泣きつかれ、家族全員で
何とか支えてヘトヘトになりながら金曜まで
かろうじて辿り着いた、という感じでした。

この土日は思い切り羽を伸ばして
楽しそうにしていましたが、
明日からは給食というさらに大きな
ハードルが待ち構えているということで
予想通り夜にはずいぶん荒れていました。
できる限りのフォローはしたので、あとは
何とか本人の力で乗り越えてくれることを
祈りたいと思います。

そして、そんな本人の頑張りとは別に
やっぱりというか学校のやり方への疑問が
早速いくつも噴出し、それへの対応に
追われた一週間でもありました。
具体的に挙げ始めるときりがないので
やめておきますが、一つだけ例として
初日の夜に本人から言われた話を。

教室で体育着に着替える際、
肌着まで脱ぐよう指示されたというのです。
もちろん、クラスの生徒全員がです。
恐らくほとんどの子ども達はそのことに
別に何の抵抗も感じなかったのでしょう。
でも、そうじゃなかった子だって
きっと何人かはいたはずだと思うのです。
学校側は、そんな子どもの「みんなの前で
肌は出したくない」という思いを無視した。

それに加えて、そのことに関してこれまで
特に基準を持っていなかった子ども達に対して
「6歳程度で裸になることに恥じらいなんか
感じるはずがない」という価値観を、
大人の側が提示してしまった。
そんなことで恥ずかしいと感じる
自分の方がおかしいのじゃないか、と
子どもに思わせてしまった。

別に学校側にそんな意図はないことは
聞けばわかることだったし、向こうは向こうで
いちいち個別に対応していられない状況が
そうさせたということもわかるのですが、
そうやって子どもの気持ちを無視することに
あまりにも無自覚であることが、早1日目で
見えてしまったことは結構ショックでした。
今回たまたま本人の申告でわかったけれど、
今後こんなふうに子どもの尊厳を平気で
削るようなことが今後いくらでも起きるのか
と思うと、さすがに気が滅入ります。

学校側に明らかに人手が足りてないことも、
現場が相当に疲弊していることも、
入学式を見ただけで何となくわかりました。
「一人一人の子どもの気持ちなんて考えて
いられるか!」という状況なのでしょう。
でもそこで「先生方も大変なんだから…」と
こちらが気を遣って引いてしまったら、
結局そのしわ寄せは全て子ども達に行くし、
そうやって自分を尊重する気持ちを
育ませてもらえなかった子どもがやがて
子どもの自尊心を育めない大人になっていく、
という連鎖は止められないと思うのです。
学校に子ども達の尊厳を守れるだけの、
かつそれによって先生方が無理を
強いられなくても済むだけの体制づくりと、
それを実現するのに十分なお金が
きちんと教育に回っていく社会を目指すのは、
私達大人の側の責務だと思います。

というかそれ以前に、自分の子どもが
そうやって雑な扱いを受けることを
単純に黙っているわけにはいかないのです。
別に相手側を責めることは必要ないので、
疑問に思ったことは疑問として
きちんと表明をしていきたいと思っています。
確実にめんどくさい奴になっていくのだろうと
自覚していますが、「その感覚おかしいよ!」
という人間がいない限り
その集団の偏りは補正されないままなので、
ひとまずやれる範囲で動いてみようかな、と
思っている次第です。

もしもそれによって排除されるなら、
そんなところに行かずに済んでよかったね、
と家族で言い合うことになるかも
しれませんが。

仲良くやってける気がしない

入学式でした。

ある程度覚悟はしていたつもりだけど、
それをはるかに上回る現実が
そこには待ち受けておりました。

トータル2時間半くらいのその時間が
永遠に感じられるような苦痛さで、
本当にヘトヘトになって帰ってきました。
感覚としてはここ数年のうちで
一番疲れたんじゃないかというくらいです。

一緒に連れて行った現在2歳のあんこが、
その長くて退屈な時間を我慢できず
会場を走り回ったり、取り押さえられて
大声を上げたり、床に這いつくばったりは
まあ想定の範囲内だったのでいいです。
それより何よりその式のあり方自体が
「えっそれ何のためにやってんの?」という
疑問しかない感じで、とにかく脳への
ストレスがすごかった、ということです。

とても全ては挙げきれませんが、
この日一日で感じた疑問をいくつか。

なぜ、校長から子どもへのお祝いの言葉を
途中で切ってまで、わざわざ親と来賓への
お礼を挟まなければならないのか。
なぜそのあと来賓全員をご丁寧に一人一人
紹介し、その度に判で押したような
「おめでとうございます」をもらっては
子ども達から「ありがとうございます」を
言わせなければならないのか。
その来賓が出席しているのにも関わらず、
その人間の所属組織が定型文の祝電を打って
さらにそれを本人の前で読み上げるのか。

なぜ、上級生が新入生へのお祝いの歌を
歌うという状況で、主賓であるはずの
1年生達を起立させて礼までさせるのか。
なぜおおよそ子ども達が一度も聴く機会など
なかったであろう、校歌や自治体の歌を
会場全体を起立させてまで歌わせるのか。

なぜ、式のあとで教室に親を移動させるのに
合図もなければ地図も出さず人も立たせず
「勝手に辿り着け」とばかりに放置するのか。
その教室に軽く50人以上が押し込められるのが
わかっていながら、なぜエアコンもかけず
窓も開けずに長時間配布物の説明をするのか。
なぜその間ただただ子ども達を待たせながら
プリントに同じことが書いてある内容を
予定時間を大幅に押してまで話し続けるのか。

なぜ、その配布物は話される説明の順ではなく
それを用意した組織毎に分けられているのか。
なぜ頼んでもないクソ重い新品の教科書を、
ただ税金をそこに回しているだけにも関わらず
「これは国が無償で配布しているものです」
という文言を刷った封筒に入れて渡すのか。
なぜ、貸与にすれば持ち帰らずに済むものを
わざわざ全員に配って大人でも引くくらいの
総重量にして、子どもに毎日背負わせるのか。

なぜPTAは、任意加入であることも言わず
退会の手続きのことも触れない会の規約を含む
一切のものを入学時にいきなり押しつけ、
しかもその中の一つを学校側が指定する
子どもの携行物に組み込み、さらに「お願い」
と称した脅迫を配布物の至る所に散りばめ、
「これをやればその後の兵役は免除されます」
とでもいうようなシステムを作ってまで
こちらの労働力を提供させようとするのか。
というか、そういう詐欺まがいのやり方を
しないと成り立たないような状態で
組織運営をさせられているのか。

他にも名前付けのことや提出物のことなど
挙げだしたらきりがないほどありますが、
式に限って言えば
とにかく大人への目配せがひどい、という
印象でした。

上に書いた来賓への低姿勢はもちろん、
親達に対しても「私達がんばってますよ」的な
アピールがすごいというか、
こんなにも子ども達のためを思って
いろいろ考えてやってるんですよと言わないと
クレームでも入れられると恐れているのか
知らないけれど、いや本当に子どものことを
考えてるなら一刻も早くこの式を終わらせろ!
と心の中で何度も叫んでいました。

その後の教室での説明も、合理性って何かね
っていうぐらいの効率の悪さ。
こんな暑さと酸素の薄さと空腹の中で
いくら口頭で説明されたって、頭に入って
こないですよ。
ついこの間運転免許センターで更新した時に
一切無駄のない講習を受けたばかりだったので
「毎年やっててこれかよ!」とまたまた
心の中で叫んでしまいました。
意味も分からないまま長時間ただ待たせられた
きなこは、この時点で完全にキレてました。

わかってますよ。
そうやって長い時間でもじっと待てるように
なる為の、訓練をしてるって言うんでしょう?
そうやって不満を言わずに耐えられるように
なることが、大人になる上で身につけなきゃ
いけないことだって言うんでしょう?

冗談じゃないんだよ。
なんで大人のダメな部分に
子どもを揃えさせようとするんだよ。
それじゃ社会はいつまで経ったって
良くなっていかないじゃないか。

実家の親に写真を送ったら電話があったので
この日のことを盛大にグチったら、
「まあ入学式ってそんなもんだよね」と。
あんた達の時も大変だったんだよ、と。
それはつまり、30年以上前から
何一つ進歩してないってことじゃんか。
「そういうもの」って皆が思ってたら、
よくないものは永遠にそのままじゃないか。
と心の中で(以下略)

 

…と、もうたくさんの方々が同じように
疑問を感じ理不尽な思いをしてきたであろう
「学校」という場について、フレッシュな
リアクションでもって感想を書いてみました。

とにかく誰も子どもの方を向いてない
あの空間に対して、今後うまくつき合って
いける気が今は全くしていませんが、
それでも明日の朝には本人が一人で
そこに立ち向かっていかなければなりません。
こちらとしてはその頑張りを支えることに
注力していきたいと思います。

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あー空はこんなに青いのに、な気分ですよ。

そこに所属する意味

1月の時点でほぼ結論は出ていたので
若干今さら感がなきにしもあらずですが、
きなこが幼稚園を退園しました。

ただ、最後まで「休み続ける」のではなく
きっぱり退園という方向にシフトを
切ることになったのには、いくつかの
理由がありました。
その一番大きなものは、不登園になった
ばかりの10月の頃にすでに触れていた、
「そこに所属する意味」だったような
気がします。

ただ休んでいる状態だと、あくまで所属は
その幼稚園にあるので、周囲もその前提で
きなこと我々を扱うことになります。
そのことでいろんな人に気を遣わせて
しまうことにもなっていたし、
そういう宙ぶらりんな状態であることでの
イレギュラーさが、様々な場所で
ストレスを発生させていることは事実でした。
そのことの心苦しさを払拭したいという思いは
ここ数週間でかなり強くなっていました。

そして何より、幼稚園側から見れば
ちっとも来る気配がないとはいえ
あくまで自分のところの生徒ですから、
その親も含めそういうふうに扱ってきます。
結果、(おそらく善意で)復帰を促す
ような言葉が飛んでくることになるし、
(きっと良かれと思って)子どもの将来を
不安視するようなことを言ってくることに
なるわけです。

「今ここで頑張っておかないと、
 この先もっと大変な思いをしますよ。」
こんな呪いの言葉を、何で親に対して
投げかけなければならないのか。
「もっと子どものことを考えてあげて。」
どうして我々の罪悪感を刺激して、
まるでこちらが間違っているかのように
思わせなければならないのか。
それは全て、その子どもと親が
その場所に所属しているからです。

全くの他人であれば絶対に言わないような
失礼な言葉を平気で浴びせられるのは、
相手が自分達の集団の中にいる人間だと
認識しているからです。
そこから離脱することが良くないことだと
心から信じているから、何とかそれを
思いとどまらせようとして、それ故に
そうやってこちらを脅すような言動に
なってしまうのだろうと思います。

果たしてその場所に留まりたいが為に、
そんな扱いをされることは正当なのか。
その集団に属していたいからといって、
あらゆる不条理や侮辱に耐えなければ
ならないのか。
そこへの疑問が、休み続けるのではなく
退園へと動いた大きな要因になりました。

きなこ本人とも改めて話をし、
「卒園証書」が単なる紙切れであって
そんなもんべつにいらねーという返事と、
変わらず登園の意志はないことを確認し、
退園することで了承を得ました。
正直本人にとってはもうどっちでもいい
というのが実状だと思います。
ただ何となく我々が「一応可能性を残して
おいた方がよいのではないか」と
恐れていただけだと思います。

その不安こそ、我々が向き合うべきもの
であって、子どもがわざわざそれを
背負う必要などないものなのだと思います。
園から、上の世代から、そして
社会全体から植え付けられた呪いと
これからも戦っていくことになりますが、
ひとまず今回、状況がはっきりしたことを
歓迎したいと思います。
うちの子どもは「どこにも所属してない人」に
なりましたが、
私達の生活は特に何も変わりません。

大人として関わってくれる人

3連休でした。
の割には、ここ数週間の感じに比べれば
平和に過ごせたような気がします。
理由は特に思い当たりませんがよかったです。

きなこは今週、改めて自転車のペダルを
つけ直しました。
1ヶ月前に補助輪を外していましたが、
それにもだいぶ慣れてきたので
本人の希望でいよいよ自転車としての
完成形になりました。
とはいえやはりペダルを漕ぐのはまだ
恐怖があるらしく、3日間練習して
足を浮かせていられたのは数秒くらい。
まだまだ時間がかかりそうですが、
今の本人の夢は「自転車が乗れる人に
なること」だそうなので、頑張ります。

あんこも昨日2人で買い物に行って
気づいたのですが、以前に比べれば
じっとしていられる時間が増えたようです。
レジでお金を払ったり買った物を袋に
詰める間くらいは、その場に留まっていて
くれるようになりました。
言葉も毎日新しいものが増えてる感じだし、
布団を畳むのを手伝ってくれたり、
自分で靴下を履こうとしたりと
いろいろ成長の兆しが見えてきています。

ところで、今日の朝「みいつけた!」を
見ていた妻が「サボさんがウチにも
いてくれたらいいのに…」と呟きました。

ほんとです。
大人があと一人この家にいてくれたら、
我々はどんなに助かるかわかりません。
まあサボさんはさすがにパーフェクトすぎる
としても、ちゃんと子どもに対して
「大人として関わってくれる人」がいるだけで
現状子ども2人+猫2匹の面倒を見ている
我が家の負担は、格段に楽になります。

「大人として関わる」というのはつまり、
子どもを搾取する相手としてでも
支配する相手としてでもなく、
もちろん迫害する相手でもなく、
保護するべき存在、育む存在として
接してくれるということです。
相手との圧倒的な権力差を自覚して、
その持てる力を相手にぶつけないように
子ども達自身の育ちを見守り、
後押ししてくれる人のことです。

この社会にいる大人の数は子どもの数より
遙かに多いはずなのに、そんなふうに
「大人として関わって」くれる人の数の、
なんと少ないことか。
というかそもそも本人がまだ大人に
なりきれていない人達の、
なんと多いことか。

ほんとうに、もしこの国の大人達が
ちゃんとみんな大人になれて、
そしてもしもそれぞれが、いま親達の抱える
負担の何万分の一ずつでもいいから
分散して肩代わりしてくれたら、それだけで
子どもを産み育てることのハードルは
あっという間に下がるんじゃないかと、
個人的には思います。

「知りたい」という暴力

たまたまこの数日で、「子ども」にまつわる
2つのニュースに触れました。
一つは電車内で陣痛が始まってしまい
急遽その場で出産になってしまった件、
もう一つは3歳の息子さんを車に残して
目を離した隙に、行方不明になってしまい
後日遺体が発見されたという件。

一つ目はそんな環境で出産に到ってしまった
当事者の方を心よりお見舞いするとともに、
ともかく母子ともに無事だったことが
何より良かったと思いました。
二つ目はニュースを聞いているだけでも
泣きそうになるような痛ましい出来事です。
自分も、子どもから目を離してしまうことが
彼らが成長するにつれて増えているので
とても他人事とは思えないし、
ご自身の不注意から息子さんを亡くされた方の
心中を、とても察することなどできませんが
心から悼みたいと思いました。

ところがこの2つのニュースに、批判的な声が
多数あがっているようなのです。
もちろん全てを見たわけではありませんが、
中には目を覆いたくなるような心ない言葉が
ネット上にアップされたりしています。
ニュースを見てどんな感想を持とうが
その人の勝手なのかもしれませんが、
そういう声が、もし当事者の方々や
また同じようにつらい体験をされた方の
目に届いてしまったら…と思うと
とてもやりきれない気持ちになるし、
どうして大変な目に遭った方に
さらに追い打ちをかけるような言葉を
投げかけることができるのかと、
それを発した人達の人格を疑いたくなる
ぐらいの気持ちにすらさせられます。

ただ、それ以上に今回気になったのが
それらの出来事をニュースとして伝える、
メディアのやり方です。
一方では事件の現場に居合わせた乗客の
撮った写真や動画をそのまま流すメディア、
一方では事件でお子さんを亡くされた父親に
遺体が見つかった直後にインタビューして、
それを映像として流すメディア。

正直、そんなもの見たくなかった。
メディアの側は、それを流すことで
市民の知りたい気持ちを満たしてあげている
というサービス精神でしょうか。
はたまた我々の持つ「知る権利」を
保証してくれているつもりなのでしょうか。
でもそれによって、電車内で出産した女性と
生まれた子どもには好奇の目が向けられる
ことになり、個人を特定されるリスクも
高まってしまいました。
息子さんを亡くした父親には、
そのインタビューで話したこと自体によって
人格攻撃を含めたたくさんの批判が
集中してしまう結果になりました。
そもそも、それを伝える必要があったのか。
誰の、何のために、事件の当事者は
自分達の姿や声を大衆の前に
晒さなくてはならなかったのか。

我々は、知りたいことを知る権利と同時に、
「知られたくないことを知られない権利」も
同じだけ持っているはずです。
現代社会においては、権利と権利は常に
ぶつかり合うものなのだと学びました。
そしてそうやって権利の折衝が起こった時、
考慮されるのは「どちらが弱い立場か」。
より弱い立場の保護を優先させるために、
一方の権利は制限されることがあるのだと。
今回の件で言えば、大衆と個人です。
当然弱い立場である個人の保護が
先に来るべきであろうと思います。
果たして今回、そうやって当事者である
個人の尊厳を守るような伝え方が、
メディアの側にできていたでしょうか。

何をどう伝えるかは、きちんとしたルールが
あるわけではなく、メディアの側の倫理観や
自主的な姿勢に任されていると聞きます。
だからそこに関しては、われわれ市民が
こういう形で疑問の声を上げて
彼らに伝えていく必要があるのでしょう。
そして同時に、何より私たち自身の側にある
「知りたい」という欲望を、制御することが
求められるのだと思います。

恐らくメディア側には、
「大衆が知りたがるから伝えたんだ」という
言い訳が立ってしまっているのでしょう。
彼ら自身から見れば使命感かもしれません。
だからこそ、こちら側が「知りたくない!」
とはっきり言えるかどうか。
実際、特異な事件や出来事があった時に
私達はより詳しいことが知りたくなります。
それは単なる好奇心だけではなく、
「なぜそんなことが起きたのか」がわからない
ままだと、不安だからなのだと思います。
自分自身の心の安定のために、
よくわからないことをスッキリさせたいという
欲求が生まれているのだと。
でもそれが多数の人のものとして集まった時、
「みんなが知りたいからいいんだ」という
錦の御旗になってしまっているのでは
ないでしょうか。

そうやって一人一人の「知りたい」という
欲求が、多数派の名の下に正当化されることは
「暴力」にもなりうるのだということを、
私達は知っておく必要があると思います。
その欲望を垂れ流すことが、対象にされた人の
尊厳を踏みにじる可能性があるのだと。
そのことを自覚して、時には「知りたい」と
思ってしまうことをぐっとこらえて、
「知らないままの状態」でいられるように
なっていくことが求められていると思います。

そうでないと、万が一この先自分自身が
何かの事件の当事者になってしまった時、
私自身の「知られたくない権利」を保証して
くれるものが、何もなくなってしまう。
自分達が欲望をコントロールすることは、
自分自身の身を守ることにもなるのです。

そんなことを考えた、
今回の2つのニュースでした。

かつて子どもだった全ての皆さんへ

子どもの時代を経験したことのない方は
恐らくあまりいないのではと思いますが、
そんな、かつて子どもだった皆さんに
いま大人の顔をして生きている一人として、
謝らなくてはならないことがあります。

私達は、皆さんにひどいことをしてきました。
たとえば、
「言うことを聞きなさい」
という言葉。
言い方の違いこそあれ、同様の意味の言葉を
言われたことのない子どももまたそんなに
多くはないのではないかと思います。

当然子どもですから、最初のうちは
そんなこと言ったところで通じないでしょう。
その時、かなりの確率で大人はその後に
「もし聞かないなら…」と、まるで相手を
脅迫するような言葉を続けてしまいます。
さっさと起きないなら。
勉強しないなら。
残さず食べないなら。
ルールを守らないなら。
さらにその後ろにどんな言葉が入るかは
様々だったでしょうが、きっと子どもにとって
好ましいものは一つもなかったはずです。

私達大人は、そういう言葉を使うことで
子どもに言うことを聞かせてきました。
それは、「恐怖」を道具に使った脅迫であり、
支配であり、暴力であったと考えています。
たとえ直接叩くなどの行為に及んでいなかった
としても、これは暴力なのだと。

大人がそういうやり方を使ったのは、
何よりそれが楽だったからです。
とにかく子どもを自分達の思い通りに
コントロールするために、恐怖というのは
非常に手っ取り早い手段だったからです。
要するに、「よく効く」のです。
おそらくそれを言う時、私達自身の中に暴力を
振るっているという自覚はなかったでしょう。
それどころか、それが親の愛情なのだとか、
そうやって厳しくすることで子どもは成長する
などと思い込んでいたのでしょう。
あるいはそう言い訳することで、自分の中の
後ろめたさをごまかそうとしていたのかも
しれません。
いずれにしても、本当に多くの大人達が
当たり前のように、そのやり方を使って
子どもに言うことを聞かせてきました。

でも、体の大きさも、力の強さも、知っている
知識の量も、つながっている世界の広さも、
大人と子どもとでは圧倒的な差があります。
その関係の中で「言うことを聞かないなら…」
と脅されることは、子どもにとって
何より恐ろしいことであったのではないかと
思うのです。

子どもは、大人の援助がなければ
生きていくことすらできません。
そんな状況で、この人に従っていないと
援助を受けられなくなるかもしれない、
生きていくことができないかもしれないという
恐怖があれば、子どもだって言うことを
聞かずにはいられなくなるでしょう。
どれだけ大人の側に自覚がなかったとしても、
その言い方は子どもにとっては
命の危機に直結するような脅しとして
作用してしまっていたはずです。

さらにそういうことをすることで、
子どもの中には次の3つの気持ちが生まれて
いたのではないかと考えています。
まず1つが、逆らうと自分の身に恐ろしい
ことが起こるのではないかという恐怖。
もう1つは、どうせ何かを望んでも
聞いてもらえない、望みを持つと
かえってつらい思いをするという諦め。
そしてもう1つは、自分はこんな扱いを
受けても仕方のない人間なのだ、という
自己否定です。

そうやって生まれた気持ちは、
簡単には消すことができません。
人によっては、十分に大人の年齢になった
今になっても、その気持ちにとらわれて
苦しんでいるかもしれません。
恐怖を紛らすために安心感を求め続けたり、
何かを望むことはバカバカしいと冷笑して
まるで初めから諦めてしまうことが
大人な態度のようなポーズを取ってみたり、
自分は生きていてもしょうがないんだ
役に立たなければ価値がないんだと思い込み
さらに酷い扱いすらも受け入れてしまったり、
幸せになることがまるで悪いことのように
感じてしまったり。
そんな気持ちに、心当たりはないでしょうか。

ところで、大人達がそういうやり方でしか
子どもを育てられなかった理由には、
他にも思い当たることがあります。
その1つはその大人自身が、子どもの頃に
さらにその上の世代の大人達から
そういうふうに育てられてきたから。
そのやり方しか経験していないせいで、
「これが正しいやり方なんだ」と
思い込むしかなかったのです。
それが間違ったやり方だと認めることは、
自分達自身の子ども時代がいかに惨めで
どれだけ酷い扱いを受けてきたかを
正面から受け止めざるをえなくなります。
それができなくて、記憶を封印したり、
「あの時の苦しみには意味があったのだ」
と美化しようとしてしまったのです。
そしてそれと同じことが、皆さんの中でも
起きているのではないでしょうか。

さらにもう1つの理由。
たとえば母親が、自分の子どもに対して
言うことを聞かせられないのを見て、
怒ってくる人がいたからです。
「うるさい」
「しつけがなってない」
「それでも母親か」
そういう声から逃れるために、
とにかく早く子どもに言うことを聞かせる
必要があったのです。
親自身が、さらに強い「社会」の脅迫から
身を守らなくてはならなかった。

他にも、探せば理由は見つかるかもしれない。
ただここではっきりと言っておきたいのは、
それらの理由は全て、大人の側の都合なんだ
ということです。
別に子どもが頼んでそうしたわけじゃない。
自分のことを恐怖による暴力で脅して、
何でも言うことを聞く素直で従順な人間に
育てて欲しいと、子ども達自身が
望んだわけではないはずです。
全ては大人が、その大人達で作る社会が、
自分達の都合で好き勝手に子どもを扱い、
暴力を持ち出し、恐怖で支配し、
成長した後もそのダメージから
回復できない人間を作るようなことを、
繰り返してきた結果なのです。

私達は、そのことを反省しなければならない。
暴力を使ったやり方は間違いだったと、
はっきり言い切らなくてはならない。
私達大人は、子どもに暴力を振るい、
その尊厳を著しく傷つけてきた。
そのことを謝罪しなければなりません。
本当に、本当に申し訳なかった。

大人の役割は、子どもが自ら成長し
自立できるようになるまでの
サポートをすることです。
皆さんが「この世界に生まれて良かった」と
思えて、これから先の人生を楽しめるように、
必要な知識を伝え、いろいろなものの見方や
考え方があることを、示してあげることです。

それができるような存在になるために、
まず大人が成長しなければ、と思います。
私達が未熟であったことで、皆さんに
とても酷い仕打ちをしてきてしまった。
その事実と向き合い、
どうすれば自分達は大人になれるのか、
これからしっかりと考え続けていきたいと
思います。

「自立とは、依存先を増やすこと」

タイトルは、熊谷晋一郎さんという方の
言葉からの引用です。

自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと | 東京都人権啓発センター

自立は依存の反対語と思われているけれど、
実際は何にも依存していない人なんていなくて
むしろそれが沢山あるがゆえに
一つ一つを意識しなくても済んでいる状態が、
つまり自立であると。

それを受けて、先日自分の中で考えたことを
図にまとめてみました。
f:id:temackee:20171104131949j:plain:w480

人は、生まれたばかりの時点では何もできず
目の前の養育者(大抵の場合は親)に
全てを任せている状態です。
つまりその時、依存先は一つだけと言えます。
それがやがて成長するに従って
実際に自分でできることが増えるだけでなく、
周りの世界の広さも見えるようになってきて
「こんな時はどこに頼ったらいいのか」
という選択肢がどんどん増えていきます。
そうやって依存先を増やしていって、
どんな事態でも困ることなく解決できる
状態になることが、つまり自立なのだと。

上の記事の中で熊谷さんは障害者のこととして
話していらっしゃいましたが、
子どもが成長して自立していく過程にも
同じことが当てはまるのではないかと
考えたのでした。

十分に依存先の数が増やせている場合、
一つ一つの依存先とのつながりは
さほど強いものにはなりません。
「こちらがダメならこちらで」という状態を
作れるので、自立した人間というのは
それだけ個として自由であるとも言えます。
一方で依存先の選択肢が少ない状態では、
必然的につながりが濃くならざるを得ない。
そこから離れては生きていけないという
思いがあると、たとえその関係性が
あまりよいものでなかったとしても、
なかなか自分から断ち切るというのは
難しいことなのだろうと思います。

またそういった過剰に濃いつながりの中では
力関係によって「支配・被支配」の状態が
作られやすくなるだろうし、相手側もまた
そのつながりに依存しているような場合、
何とかその関係性を維持しようと考えるあまり
相手に選択肢を与えず、自立を妨げる方向に
働いてしまうことがあるのであろうと。
それがつまり、親による「過干渉」のような
パターンなのではないかと思います。

そして、先日の日記でも触れた「所属」のことも、
これと同じ話のような気がします。
少ない選択肢の中でつながりが濃くなると
どんな理不尽な扱いも受け入れざるを得ない、
何とかそこに属している状態を維持するために
自分自身を押し殺してでもしがみつく、
という状態が発生してしまうのだと思います。

ちなみに、依存先というのはたとえば
ストレスへの対処のような場合にも必要で、
その人が受けたストレスを解消しようとして
誰かに八つ当たりしてしまう、という時も
結局はその相手の存在に依存していると
言えるのではないかと思われます。
やたらと周りに対して攻撃的な子を見たら、
その子ども自身が受けているストレスが
周囲の誰かにぶつけないといられないほど
大きい状態になってしまっている、
という可能性をまずは考えた方がいいの
かもしれません。

そしてさらに、依存先には「自分自身」も
含まれるのだろうと考えました。
上のストレスへの対処のことで言えば、
他人にぶつけて処理するのではなく
自分の中で解消できる方法を身につけている
というのは、誰の力も借りることなく
生きていけるということで、恐らく一般的な
「自立」のイメージに近いものでしょう。
またその人自身に備わっている自己肯定感が、
外的要因に左右されないという理由で
大きな依存先の一つになる場合も
あるかもしれません。

ただ、それが「我慢強さ」や「根性」のような
ものになってしまった場合、それは決して
無尽蔵に湧いて出るものではないし、
むしろ命を削って無理矢理生み出すような
種類のものなので、そこに依存するのは
かなり注意が必要な気がします。
いずれにしても、自分自身を依存先にするのは
誰もが陥る可能性のある不測の事態
(つまりは体や心の不調など)
に対処ができなくなるので、やはり他にも
たくさん選択肢を用意できた中の一つくらいに
とどめておくのが良いのだろうと思われます。

長々と書いてきましたが、
私達が子どもを育てていく上で
もし何かゴールがあるとするならば、
それはつまり子どもが自立すること、
それを身近な存在としてサポートすることに
あるのだろうと思います。
もちろん本人が依存先をたくさん見つけだして
安定した状態を作れるのが一番ですが、
そのためのヒントを提供したり、彼らがそれを
見つけやすいように道筋を示すことなどは
先輩として手を貸してあげられることのような
気がします。

ただでさえ子どもたちは、はじめのうち
ごく狭い世界しか知りません。
そんな彼らが家にも学校にも幼稚園にも
安心できる居場所がないとか、
逃げ場のないまま今の関係にすがるしかない
というような状況を作らせないように、私達は
気を配るべきなのではないかと思っています。

もちろんそれは、親だけが頑張って
できるようなことでもありません。
むしろそれより外側から差し伸べられる手、
つまりは社会全体が子どもの依存先を
増やしてあげて、自立を促してあげるような
働きかけこそが必要なのだろうと思います。