シーホースとナッツ

長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育て中に考えたこと、の保管場所。

子どもを死なせたくないと思うなら

今週、熱中症で亡くなった1年生の子の
ニュースに打ちのめされ、
いまだにダメージから立ち直れないでいます。
子どもがひどい目に遭うニュースは
気持ちに余裕がない時はあまり触れないように
しているのですが、今回はそれではいけないと
できる限り向き合って戦いました。
それはこの事件の「ひとごとでなさ」が
あまりに大きかったからかもしれません。
はたまた今回起こってしまったことが、
自分の中で持っていた問題意識とあまりにも
合致してしまったせいかもしれません。
とにかく、気を抜くと泣きそうになるのを
何とか抑えながらたくさん考えてきました。

学校という場に対する疑問や不満は、
もちろん今に始まったことではなく
入学前からずっと持ち続けてきたし
自分なりに発信してきたつもりです。
実際中に入ってみて、自分の子どもが
2ヶ月足らずでそこに通えなくなるまでの
学校側とのやりとりを経験してみて、
現場がどういう意識でいるのか、
なぜそういうやり方になってしまうのが
さらに詳しく見えてきて、
そもそもの問題は学校だけにあるのではなく
それを取り巻く社会全体にあること、
我々一人一人の意識にあることが
何となくわかってきました。
というよりむしろ、私達自身が
「学校にそうさせている」と言ってもいい位の
状態ができてしまっているのだと思います。

子どもをどう育てていったらいいんだろう、
というとても漠然とした問いに直面した時、
何となくみんなの中で
「とにかくちゃんとやれること」
「何事も真剣に取り組めること」
が良いこととされて、何となくみんなが
そっちの方にシフトしていってしまった。
その結果、少しバランスが悪くなってしまって
いるのではないのかなと。
はたしてそこで、
「ちゃんとやらないこと」
「手を抜くこと」の大切さについて、
どれだけ目を向けられていたか。

親にしろ先生にしろ、一生懸命になれば
なるほど子どもを駆り立て、追い詰めてしまう
というリスクをどれほど意識できていたか。
子どもには、いろんなタイプがいます。
そこに対して「言うだけは言っとこう、
何しろできた方がいいことなんだから。」
という感覚で投げかけをした場合、
100言われたことを100受け止めてしまう子は
とんでもない重荷を抱えることになります。
相手がどの程度の受け止め方をするかも考えず
とりあえず「良いこととされること」を
ぶつけていった結果、あり得ないレベルの
要求に膨らんでしまってはいないか。

そしてそれは、大人から子どもへだけでなく
その子どもを育てる役目をしている
親や先生たち自身への要求となって
社会から押し寄せているのではないか。
求める側は「どうせ100返ってくることなんか
ないだろう」という軽い気持ちで言ったことが
気づけばとんでもない重さになって
現場に叩きつけられている、そんな事態が
起こっているような気がするのです。

だからいま必要なのは、
そのバランスを立て直すための
反対方向の声なのではないかと。

子どもには、なるべくいろいろできるように
なることも大切だけど、だからって休んだり、
楽をしたり、失敗したり、やりたくなくて
投げ出したり、そんなの嫌だと声を上げたり、
立ち止まって考えたりするのも
やっぱり必要で大切なことなんだよ、
という声。

無理をすればどこかに無理が出るし、
不満をため込めばいつかどこかで噴出するし、
むりやり我慢させられればその分あなたの
心の大切な何かが封じ込まれていくんだよ、
という声。

そしてそれは、子どもだけでなく
私達自身にも同じように投げかけられるべき
言葉であろうと思うのです。
「子どもを育てる仕事」は、
そこにかけられる要求も大きくなりがちです。
こうなって欲しいという願いが大きければ
大きいほど、課せられる重荷も際限なく
重くなっていってしまいがちです。
でも、子どもを育てる上で、
子どもが安心して過ごせる上で
何が一番必要かと言ったら、
それは大人の側の余裕だろうと思うのです。
それが現場にいる人間としての実感です。
そのことを、理想を求める声に対して
ぶつけていって、気づかせていく必要が
あると思っています。

ただ、とかく弱い者にしわ寄せするこの国で、
親といえば母親とされるような偏った
この社会において、女性という立場で
声を上げることの難しさはいくら想像しても
しきれないものがありますし、
学校という場で仕事に忙殺され
生活を人質に取られ、板挟みになっている
現場の先生達の状況も理解できます。
だからこそ、今の自分の立場でできることが
見えてくるような気がしています。

これだけ差別や支配がこの社会の基盤に
根付いてしまっているのは、
立場の弱い人間を自分の思い通りにすることの
気持ちよさだったり、自分が抱える不満を
立場の弱い人間に擦り付けることの
たやすさに原因があるのだろうと思います。
そういった手段に手を染めなければならない
私達一人一人の状況も、きっとこんなふうに
子どもの頃から育てられてきたのだろうことを
思えば、想像できないことはありません。

でも、そうやって他人を自分の理想どおりに
したくてしょうがない人達を喜ばせてあげる
必要なんてないし、誰かをその人のストレスの
はけ口に使わせてやる必要もありません。
その人が受けた傷は、何よりその人自身が
報われることで解決すべきです。
常に誰かが誰かの慰み物であるという状態は、
もうそろそろ脱していくべきです。

それが、圧倒的に弱い立場にいる子ども達が
これ以上つらい思いをしないで済むための、
立場の弱い者が保護され、誰もがその人自身の
尊厳を守られる社会にしていくための、
一つの道筋であろうと思います。

子どもを死なせたくないと思うなら、
子どもに幸せになって欲しいと願うなら、
まず大人である自分達がいま抱えるもの、
自分達がこれまでため込んできたものと
向き合う勇気を。