シーホースとナッツ

父親目線で、長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育ての記録や思ったことなどを書いていきます。

「知りたい」という暴力

たまたまこの数日で、「子ども」にまつわる
2つのニュースに触れました。
一つは電車内で陣痛が始まってしまい
急遽その場で出産になってしまった件、
もう一つは3歳の息子さんを車に残して
目を離した隙に、行方不明になってしまい
後日遺体が発見されたという件。

一つ目はそんな環境で出産に到ってしまった
当事者の方を心よりお見舞いするとともに、
ともかく母子ともに無事だったことが
何より良かったと思いました。
二つ目はニュースを聞いているだけでも
泣きそうになるような痛ましい出来事です。
自分も、子どもから目を離してしまうことが
彼らが成長するにつれて増えているので
とても他人事とは思えないし、
ご自身の不注意から息子さんを亡くされた方の
心中を、とても察することなどできませんが
心から悼みたいと思いました。

ところがこの2つのニュースに、批判的な声が
多数あがっているようなのです。
もちろん全てを見たわけではありませんが、
中には目を覆いたくなるような心ない言葉が
ネット上にアップされたりしています。
ニュースを見てどんな感想を持とうが
その人の勝手なのかもしれませんが、
そういう声が、もし当事者の方々や
また同じようにつらい体験をされた方の
目に届いてしまったら…と思うと
とてもやりきれない気持ちになるし、
どうして大変な目に遭った方に
さらに追い打ちをかけるような言葉を
投げかけることができるのかと、
それを発した人達の人格を疑いたくなる
ぐらいの気持ちにすらさせられます。

ただ、それ以上に今回気になったのが
それらの出来事をニュースとして伝える、
メディアのやり方です。
一方では事件の現場に居合わせた乗客の
撮った写真や動画をそのまま流すメディア、
一方では事件でお子さんを亡くされた父親に
遺体が見つかった直後にインタビューして、
それを映像として流すメディア。

正直、そんなもの見たくなかった。
メディアの側は、それを流すことで
市民の知りたい気持ちを満たしてあげている
というサービス精神でしょうか。
はたまた我々の持つ「知る権利」を
保証してくれているつもりなのでしょうか。
でもそれによって、電車内で出産した女性と
生まれた子どもには好奇の目が向けられる
ことになり、個人を特定されるリスクも
高まってしまいました。
息子さんを亡くした父親には、
そのインタビューで話したこと自体によって
人格攻撃を含めたたくさんの批判が
集中してしまう結果になりました。
そもそも、それを伝える必要があったのか。
誰の、何のために、事件の当事者は
自分達の姿や声を大衆の前に
晒さなくてはならなかったのか。

我々は、知りたいことを知る権利と同時に、
「知られたくないことを知られない権利」も
同じだけ持っているはずです。
現代社会においては、権利と権利は常に
ぶつかり合うものなのだと学びました。
そしてそうやって権利の折衝が起こった時、
考慮されるのは「どちらが弱い立場か」。
より弱い立場の保護を優先させるために、
一方の権利は制限されることがあるのだと。
今回の件で言えば、大衆と個人です。
当然弱い立場である個人の保護が
先に来るべきであろうと思います。
果たして今回、そうやって当事者である
個人の尊厳を守るような伝え方が、
メディアの側にできていたでしょうか。

何をどう伝えるかは、きちんとしたルールが
あるわけではなく、メディアの側の倫理観や
自主的な姿勢に任されていると聞きます。
だからそこに関しては、われわれ市民が
こういう形で疑問の声を上げて
彼らに伝えていく必要があるのでしょう。
そして同時に、何より私たち自身の側にある
「知りたい」という欲望を、制御することが
求められるのだと思います。

恐らくメディア側には、
「大衆が知りたがるから伝えたんだ」という
言い訳が立ってしまっているのでしょう。
彼ら自身から見れば使命感かもしれません。
だからこそ、こちら側が「知りたくない!」
とはっきり言えるかどうか。
実際、特異な事件や出来事があった時に
私達はより詳しいことが知りたくなります。
それは単なる好奇心だけではなく、
「なぜそんなことが起きたのか」がわからない
ままだと、不安だからなのだと思います。
自分自身の心の安定のために、
よくわからないことをスッキリさせたいという
欲求が生まれているのだと。
でもそれが多数の人のものとして集まった時、
「みんなが知りたいからいいんだ」という
錦の御旗になってしまっているのでは
ないでしょうか。

そうやって一人一人の「知りたい」という
欲求が、多数派の名の下に正当化されることは
「暴力」にもなりうるのだということを、
私達は知っておく必要があると思います。
その欲望を垂れ流すことが、対象にされた人の
尊厳を踏みにじる可能性があるのだと。
そのことを自覚して、時には「知りたい」と
思ってしまうことをぐっとこらえて、
「知らないままの状態」でいられるように
なっていくことが求められていると思います。

そうでないと、万が一この先自分自身が
何かの事件の当事者になってしまった時、
私自身の「知られたくない権利」を保証して
くれるものが、何もなくなってしまう。
自分達が欲望をコントロールすることは、
自分自身の身を守ることにもなるのです。

そんなことを考えた、
今回の2つのニュースでした。