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シーホースとナッツ

父親目線で、長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育ての記録や思ったことなどを書いていきます。

子どもに感動させてもらっているという自覚

今日は、きなこ2度目の運動会でした。

先週からのあんこの風邪が徐々に家族全員に
感染し、当初運動会予定日だった日には
当のきなこが夕方から発熱。
雨で順延になったことが不幸中の幸いで、
今日も多少は咳が残っていたものの
何とか元気に最後まで参加できました。

何しろ2学期が始まって以来、園では毎日
運動会の練習が行われていたわけですが、
そんな中きなこ自身は幼稚園そのものに
行きたくない状態がずっと続いていて、
案の定その行きたくない理由の中には
「運動会の練習したくない」も含まれて
いたので、それでもどうにか頑張って
練習を重ねて当日まで来たんだし
できれば本人がその成果を実感できる形で
終わってもらえれば…と思っていたので、
本当に参加できて良かったと思います。
というか僕らも、土曜の段階ではまだまだ
風邪っぴきだったので、正直助かりました。

さて、去年も書きました
幼稚園の運動会の会場というのは、完全に
「親達が子どもの頑張りを見せてもらう」場。
児童の何倍もの人数が周りを取り囲んで
無数のカメラやビデオのレンズがずらっと
自分達を狙っているという異様な空気の中、
子ども達は練習の成果を披露するのです。

僕らもご多分に漏れずベストポジションで
きなこの姿をレンズに収めてきたし、
年長さん達の鼓笛隊の演奏を聴きながら
「ここまで仕上げるのにいっぱい練習したん
だろうなぁ…」とちょっとジーンと
来てしまったりもしたわけなのですが、
それでもやっぱり忘れてはならないのは
「子どもが頑張ることと、親がそれを見て
感動することは、全く別の話」という
ことなのだと、今回改めて思ったのでした。

数日前にはANAの「旅作」というサービスの
Web広告が、巷で大変話題になりました。
あれに「感動した」と思う人の気持ちを、
別に理解できないわけではありません。
しかしそれはあくまでわれわれ大人が
「子どもという存在を使って
感動という気持ちよさを得ている」
という状況であることを、理解しなければ
ならないと思うのです。

あれを社会が美談にしてしまうということは、
子どもの立場から見てみれば
「大人達は自分にああいう反応をして欲しいと
思ってるんだな」と映るでしょう。
弱い立場の子ども達は、身を守ってくれる
大人に好かれなければ生きていけません。
そこへ「子どものこういう反応に感動した」
という声が大勢を作ってしまうことは、
子ども達自身にとってみれば
「子どもはこうあるべし」という圧力として
襲いかかってくるも同然なのではないかと。

子どもの有りようを大人中心の社会が
勝手に決めてしまうことは、子どもにとっては
そこからはみ出す恐怖を与えることだし、
子ども自身の自由なあり方を狭めることです。
あくまで子ども一人一人の個性を認める
社会でなければならないし、常にその多様性を
許容できる社会であることが、それを作る
我々大人の役目なのではないかと思うのです。

確かに、子どもが拙いながらも一生懸命に
努力したり、親思いの行動を取ることは
大人達の感動を誘うのかもしれません。
しかしそれを大人の側が無自覚に
「泣ける!」「美しい!」と言ってしまうのは
あまりにも子どもに対する配慮に欠ける
行為だし、もしもどうしてもそうやって
子どもの成長や頑張りを見て、それを糧に
感動を味わわずにはいられないというならば、
むしろそこまで感動に飢えるほど日頃余裕のない
大人の側が、自分達に対してどうにかしないと
いけない問題なのではないかと思います。

いずれにしても、子どもが頑張るかどうか、
親に感謝するかどうかは
全てその子ども自身の問題です。
それを大人の側が子どもに強要することなど
決してあってはならないと思った、
今年の運動会でした。

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去年と打って変わっての曇天&寒かったです。