シーホースとナッツ

長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育て中に考えたこと、の保管場所。

「右へならえ」と「見えない不安」

数日前、Twitter
「学校指定で買わされる物が多くて大変。
 どれも高いし。」
というような話題が盛り上がり、かくいう僕も
「指定の上履きが高すぎる!と親がダイエー
 似たような靴を買ってきて、履かされた」
という思い出話をつぶやいたりしましたが、
その件に関してちょっと思うところがあり
もう少しだけ書いてみようと思います。

今にして思えば、おそらく学校指定の上履きも
「必ずそれにしなければならない」という程の
ものではなかったし、そうだったからこそ
きっと親も真に受けたんだろうと思います。
またそれ以上に当時の我が家は「貧乏」が
アイデンティティになっているような所があり
値段の安さが何よりも正義とされていたので、
それに「恥ずかしいからヤダ!」みたいな
子ども自身の意志など挟める雰囲気では
ありませんでした。

しかしその、決して強制ではなかったはずの
「学校指定の上履き」は、フタを開けてみれば
履いていないのはクラスで一人だけという
衝撃の事実に直面して、僕は「何でもっと
ちゃんと抵抗しておかなかったんた!」と
激しく後悔することになるわけです。
幸いそれでいじめに遭うこともなかったので、
今となっては単純に「恥ずかしさに耐えながら
中学3年間を送りました。」というだけの
ほのぼのエピソードに過ぎないのですが、
あの時感じた「どうしてこうなった」感は
今でもなお疑問として残っているのです。
「何で、みんな一緒になっちゃうんだろう?」
という疑問。

今でこそ、すっかり「マイノリティ」の
居心地の良さに身をうずめていますが、
僕も子どもの頃は周りと同じであることに
憧れも持っていたし、家庭環境のせいで
みんなと同じように振る舞えないことに
強いコンプレックスも感じていました。
それが、どうやっても必ずマイノリティに
なるように人生を歩んでしまう原因は
家庭の環境にあるのではなく、
自分自身が生まれつき持っている
ものなんだ、と気づく20代を経て
いつしかそんな気持ちもなくなり、
むしろ周りに合わせようと必死になって
頑張る人を見て「大変そうだなぁ」と
感じるくらいに、考え方が変化しました。

もちろん孤独に対しての不安は今もあるし
自分の考えが揺らぐことも多々あります。
それでも少なくとも、訳も分からず
ただ右へならえを「しなきゃいけない」
みたいな考えには捕らわれなくなったし、
そこからはみ出ることを恥ずかしいとは
あまり感じなくなりました。

この、「周りと一緒がいい」と思う感覚って
一体どこからくるものなんでしょう?
マズローが言うところの「所属の欲求」の
せいでしょうか?それともさっき書いたような
「いじめられるかもしれない」という不安?
もちろんそれは相当あると思います。
親の立場からすると、周りと違うことをしたら
自分の子どもがいじめられるかもしれないし、
子どもにそんな靴を履かせている自分自身が
周りから白い目で見られるかもしれない。
それはきっとかなりつらいことでしょう。
でも実はそんな具体的なことではなく、
もっとあやふやでもっと巨大な
「何だかわからないけど不安」というものが
根底にあるんじゃないかと考えています。

不安というのは、「何が不安なのか」という
対象がハッキリしている場合は
そんなに脅威ではないです。それに対して
必要な対処をすればいいだけのことだし。
オバケと同様、見えていればさほど怖くない。
でも「何だかわからないけど不安」だと
あるのかないのかがよくわからないから
直接対処することもできないし、
無限に膨らむ可能性があるのでやっかいです。
日本人というのは、特にそういう不安を
感じやすい人達のように見えます。
だからこそ、その恐怖から逃れるため、
つまり「心の平穏を保つため」に
何かしらの対処が必要なんだろうと思います。

「周りと違うことをする」というのはまさに
その『何だかわからないけど不安』という
危険地帯に足を踏み出すようなもので、
逆に言えば「周りと同じようにする」のは
『決して自分一人ではない』という
安全地帯に留まっていられる
絶対的なカードなんだろうと思うのです。
本当に「孤独→不安」、「集団→安心」
というようなことが心理学の本に載っている
かどうかはわかりませんが、実際に周りと
同調した行動を取ることで不安がやわらぐ、
というのは感覚としてとてもよくわかります。
ドッジボールで言えば、一人きりの状態で
狙われるか、みんなと団子になっている状態で
狙われるかみたいなことですね。
前者のそれの心細さったらないわけです。

だとすると大事なのは、そのように
「周りと合わせようとする行動」の理由が
実は「自分の中の不安な気持ち」にあること、
それを自分自身がちゃんと認識することに
あるんじゃないかと思います。
逆に、全く不安のない人は
別に周りに合わせる必要なんてないわけです。
結局何をを選ぶかはその人の「選択」なんだ、
ということがちゃんとわかっているかどうかが
とても重要なことのような気がします。
それを認識することで、不安そのものには
対処できないかもしれないけど、少なくとも
行動の理由がはっきりすることによって
それ以上余計なストレスになるのだけは
避けられるんじゃないかと思うからです。


さて、大変前置きが長くなりましたが
実はここからが本題になります。
これから先、子どもが集団の中に入って行く時
親としてそういったものを自分の子どもに
買い与える機会がきっと訪れます。
ここまで書いてきたような、「選択」を
子どもに代わってやることになるわけです。
その時果たして自分ならどうするのかを
ここ数日ずっと考えていました。
まだ結論は出ていないし、今どれだけ悩んでも
どうせその時になったらまた考えは揺らぐに
決まっています。

でも今の時点で言えるのは、どちらにしても
僕はその「選択」をしたということ自体を、
子どもに対してきちんと明示することが
できたらいいのかな、ということです。
不安に負けて周りに合わせるにしても、
値段を優先して独自のものを探すにしても、
単純にそういうことに悩む手間自体を惜しんで
与えられたものを受け入れるにしても、
別に初めから決まっていた事なんかではなく
その時点での「選択」なんだよ、ということを
ありのままに、できれば理由もちゃんと添えて
子どもに伝えてあげたらいいんじゃないか。

それに本人が納得するかどうかは別としても、
少なくとも親の行動の理由を正直に提示して
説明することで、自分自身も選択をすることが
できるものなんだ、ということは理解をして
もらえそうな気がします。
そして将来、自分も同じような場面に
出合った時に、本人自身の判断基準に
何かしらプラスできるのであれば、十分
役目は果たしたことになるかなと思うのです。


今回、思い出話がきっかけで
久しぶりに過去の自分としっかり向き合って
あれこれ考えました。
あの頃に比べればいろんなことがわかってきて
見える不安は減ったけれど、見えない不安は
かえって増えたような気がします。
ただ、今の方が多様性に対してずっと寛容に
なってきているし、やっぱりいい時代には
なってきているんでしょうね。

子育てなんて、それ自体が壮大でゴールのない
「何だかわからない不安」の固まりみたいな
ものですから、自分の心の平穏のためにも
「右へならえ」なんかもどんどん活用して、
ゆるゆると乗り切って行ければ
もう十分なんじゃないかと思いますけどね。
あの時あれだけ自分は恥ずかしい存在なんだと
思って生きてきたけれど、何だかんだで
今もこうやっていっちょ前に親をやっている
わけですし。