シーホースとナッツ

長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育て中に考えたこと、の保管場所。

がんばりポイント

この週末は、小学校の運動会がありました。
きなこは1回も練習に参加してませんが、
様子だけは見に行きたいということで
あんこも連れて行ってきました。

が、会場の人の多さと、ちょうどやっていた
かけっこのピストルの音がダメだったらしく
滞在5分ですぐその場を後にしました。
このリアクションがヒントになると思うので
後日学校にフィードバックしたいと思います。

今回はじめて学校の運動会に行ってみて、
周りからわらわら人が集まってくる感じが
ああ地域のお祭りみたいなものなのだな、
という印象を受けました。
これだけの人数が押し寄せるイベントを
先生やPTAだけで回すのはたぶん無理なので、
おそらく相当数の地域の人達が
協力して成り立っているのでしょう。
皆さん本当にお疲れさまですという
気持ちと同時に、はたしてそれだけの
大規模なものにする必要がどれだけあるの
だろうか、とも考えてしまいました。
いったい誰のためのイベントなんだろう、
子どもががんばる姿を見たくてしょうがない
っていう感覚とはどんなものだろう、
みたいなことをぐるぐると。

物語なんかで、主人公がミスをして
ピンチに陥る、というような展開が
我が家は親子揃って苦手なのですが、
個人的には登場人物に災難が降りかかって
困難な状況を何とかがんばって乗り越える、
みたいなものも年々ダメになってきています。
特にそれが子どもだったりするとなおのこと。
娯楽としてそういうものが求められるのには
どういう心理があるんでしょうね。

そういえば、今日たまたまテレビで出てきた
「根性」という言葉の意味を聞かれたので、
「すごく無理をして本当はないはずの力を
ムリヤリ出すことだよ。まああんまり
いいことじゃないねぇ。」と
説明しておきました。
少なくとも、他人からそれを強要されるのは
決して望ましいことではないと思います。

がんばるということで言うと、相変わらず
お風呂にしろ歯磨きにしろ食事にしろ
きなこの「めんどくさい」が強すぎて
毎日のようにやりたくないでもやるべきか…
という間でウンウン悩んでいるので、
一方で毎日「早くゲームやりたい、もっと
やりたい」と言っているし、それならそれを
モチベーションにしてみたら?ということで
「がんばりポイント」というシステムを
提案してみました。

やりたくないけどやった方がいいことを、
自分なりにがんばって出来たら1ポイント。
溜まった分は1ポイントを5分に換算して
好きな時に普段のゲーム時間に上乗せできる。
ついでにママの家事を手伝っても1ポイント。

最初説明した時は、そうやってポイントを
溜めること自体がめんどくさい…と
言われましたが、システム導入のサービスで
初回に2ポイントつけるというで話をしたら
乗ってきたので、早速やってみることに
しました。
そんなにガチガチの運用をするつもりはないし
こっちからそれを餌に迫るつもりもないですが
本人的に悩んでしまった時の後押しになれば…
ということでとりあえず始めてみます。

で、さっき寝る前には「そのポイントは
ゲーム時間以外にどんなことに使える?」と
想定外の質問が来たので、軌道に乗るようなら
いろいろと考えていきたいと思います。

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今週、僕らが9回目の結婚記念日だと聞いて
きなこが描いてくれたお祝いの絵。
毎日特に何もいいことがないと、こういうのが
ご褒美になったりするのだなぁという気持ちも
わかるのですが、でもこれを子どもに対して
求めてしまうのも違うよなぁと思うのです。

自分の心のケアは自分でできるように

ここの所、大変な災害が立て続けに起きて、
毎日ちょっと気を抜くと泣いてしまいたく
なるようなニュースがどんどんテレビから
流れてきます。
とにかく、被災地の方々には一刻も早く
心の平穏と生活の安定が戻ってくれることを
祈るばかりです。

そんな中、特に被災者でもない私たちが
今すぐにできること、そして結構やった方が
いいんじゃないかなと思っていることが、
「ちょっとでも優しい気持ちで
いられるようにすること」です。
優しい気持ちでいられるということは、
それだけ自分の気持ちの中に余裕がある
ということなので、つまり私たちはなるべく
自分の気持ちに余裕を確保しておけるように
意識して過ごしてみてはどうか、
と思っているわけです。

ニュースを見て、たとえ自覚できていなくても
私たちは少なからず心にストレスを
受けているんではないかと思います。
まずそのストレスの存在を認識してあげて、
自分に合った方法で対処をしてあげること。
ストレスの原因になっていること自体から
離れるのが難しいのであれば、何か別の形で
埋め合わせできるようにしてあげること。

それを自覚できないままで放っておくと、
たとえ見えないようにしたところで
それ自体が消えることはないので、
結局はどこかで何らかの形で出てきます。
自分の中で何とかできなかったそれは、
「誰かに何とかしてもらう」という方法に
頼るしかなくなるわけですが、
自覚できていなければ当然その「誰か」に
正しい対処法を求められるわけもなく、
「とにかくこのモヤモヤをスッキリしたい!」
という方向になってしまうんだろうなと。
マイナスな感情を上手く言葉にできなくて
ついクラスの友達に乱暴してしまう子どもと、
図式としては同じです。

さらに良くないことに、そうやって
何とかしてもらおうとする「誰か」とは、
たいていが自分にとって言いやすい相手、
たとえば子どもだったり女性だったり
外国籍の人だったりといった、
社会的に立場の弱い人達が選ばれがちです。
要するに、その人達に自分のストレスを
擦り付けることで解消しようとしてしまう。
そういう事態になることを避けるためにも、
これだけ大変なことが周りで起きている
今だからこそ、改めてまず自分の中にある
ストレスの存在と、それが生まれる原因を
しっかり見定めておこうと。
そう意識していないと、知らず知らずのうちに
誰かを傷つけてしまいかねないなと
思ったのです。

実際問題、普段から私たちはそのことが
あまり上手にできていないのではないかと
思うことがあります。
たとえば国に対しても、「誰か何とかして」の
「誰か」を求めてしまっていないだろうか。
もちろん自分達の生活環境の改善や、
きちんと復興がされるように資金や人員が
割り当てられていくように求めていくことは
何もおかしいことではないのですが、
自分達が自覚できていない精神的ストレスの
ケアを国に求めてしまうということは、
結局は「一時的なスッキリ」を国に対して
やってもらうということにしかならない
のではないかと。
みんなが「とにかく目の前のモヤモヤから
目を逸らさせてくれ!」と求めて、
国としてもそれに応じるように動いた結果が、
つまりはやたらとでっかいお祭りをやったり、
さっき言ったような弱い相手に擦り付ける
みたいなことを一緒になってやろうとしたり、
何故かやたらと攻撃力を高めるための道具を
たくさん買い込もうとしたり、
国の基本ルールをむりやり変えようとしたり、
そういうことになっているんじゃないかと。

そんな感じの「スッとする」ことにばかり
コストを持っていかれないためにも、
私たちはせめて自分自身の心のケアぐらいは
自分でできるようにしておく必要が
あると思うのです。
実際やることは別に難しいことではなくて、
たとえば普段よりたくさん休憩を取るとか、
いつもより長めに寝ておくようにするとか、
この際だから普段より豪華な食事をするとか、
ちょっと欲しかったけど買わずにいたものを
思いきって買っちゃうとか、
そんなことでいいんだろうと思います。

自分のできる範囲で、自分にあったやり方で、
自分がいま何にストレスを感じていて
どうすればそれに対処できるかという
心のケアが皆それぞれにできるようになれば、
もうちょっと余裕を持って、
優しい気持ちで過ごせるようになって、
これまでそこに使っていた分のコストを
いま必要なことに振り分けることが
できるようになるんじゃないかなと思います。

子どもを死なせたくないと思うなら

今週、熱中症で亡くなった1年生の子の
ニュースに打ちのめされ、
いまだにダメージから立ち直れないでいます。
子どもがひどい目に遭うニュースは
気持ちに余裕がない時はあまり触れないように
しているのですが、今回はそれではいけないと
できる限り向き合って戦いました。
それはこの事件の「ひとごとでなさ」が
あまりに大きかったからかもしれません。
はたまた今回起こってしまったことが、
自分の中で持っていた問題意識とあまりにも
合致してしまったせいかもしれません。
とにかく、気を抜くと泣きそうになるのを
何とか抑えながらたくさん考えてきました。

学校という場に対する疑問や不満は、
もちろん今に始まったことではなく
入学前からずっと持ち続けてきたし
自分なりに発信してきたつもりです。
実際中に入ってみて、自分の子どもが
2ヶ月足らずでそこに通えなくなるまでの
学校側とのやりとりを経験してみて、
現場がどういう意識でいるのか、
なぜそういうやり方になってしまうのが
さらに詳しく見えてきて、
そもそもの問題は学校だけにあるのではなく
それを取り巻く社会全体にあること、
我々一人一人の意識にあることが
何となくわかってきました。
というよりむしろ、私達自身が
「学校にそうさせている」と言ってもいい位の
状態ができてしまっているのだと思います。

子どもをどう育てていったらいいんだろう、
というとても漠然とした問いに直面した時、
何となくみんなの中で
「とにかくちゃんとやれること」
「何事も真剣に取り組めること」
が良いこととされて、何となくみんなが
そっちの方にシフトしていってしまった。
その結果、少しバランスが悪くなってしまって
いるのではないのかなと。
はたしてそこで、
「ちゃんとやらないこと」
「手を抜くこと」の大切さについて、
どれだけ目を向けられていたか。

親にしろ先生にしろ、一生懸命になれば
なるほど子どもを駆り立て、追い詰めてしまう
というリスクをどれほど意識できていたか。
子どもには、いろんなタイプがいます。
そこに対して「言うだけは言っとこう、
何しろできた方がいいことなんだから。」
という感覚で投げかけをした場合、
100言われたことを100受け止めてしまう子は
とんでもない重荷を抱えることになります。
相手がどの程度の受け止め方をするかも考えず
とりあえず「良いこととされること」を
ぶつけていった結果、あり得ないレベルの
要求に膨らんでしまってはいないか。

そしてそれは、大人から子どもへだけでなく
その子どもを育てる役目をしている
親や先生たち自身への要求となって
社会から押し寄せているのではないか。
求める側は「どうせ100返ってくることなんか
ないだろう」という軽い気持ちで言ったことが
気づけばとんでもない重さになって
現場に叩きつけられている、そんな事態が
起こっているような気がするのです。

だからいま必要なのは、
そのバランスを立て直すための
反対方向の声なのではないかと。

子どもには、なるべくいろいろできるように
なることも大切だけど、だからって休んだり、
楽をしたり、失敗したり、やりたくなくて
投げ出したり、そんなの嫌だと声を上げたり、
立ち止まって考えたりするのも
やっぱり必要で大切なことなんだよ、
という声。

無理をすればどこかに無理が出るし、
不満をため込めばいつかどこかで噴出するし、
むりやり我慢させられればその分あなたの
心の大切な何かが封じ込まれていくんだよ、
という声。

そしてそれは、子どもだけでなく
私達自身にも同じように投げかけられるべき
言葉であろうと思うのです。
「子どもを育てる仕事」は、
そこにかけられる要求も大きくなりがちです。
こうなって欲しいという願いが大きければ
大きいほど、課せられる重荷も際限なく
重くなっていってしまいがちです。
でも、子どもを育てる上で、
子どもが安心して過ごせる上で
何が一番必要かと言ったら、
それは大人の側の余裕だろうと思うのです。
それが現場にいる人間としての実感です。
そのことを、理想を求める声に対して
ぶつけていって、気づかせていく必要が
あると思っています。

ただ、とかく弱い者にしわ寄せするこの国で、
親といえば母親とされるような偏った
この社会において、女性という立場で
声を上げることの難しさはいくら想像しても
しきれないものがありますし、
学校という場で仕事に忙殺され
生活を人質に取られ、板挟みになっている
現場の先生達の状況も理解できます。
だからこそ、今の自分の立場でできることが
見えてくるような気がしています。

これだけ差別や支配がこの社会の基盤に
根付いてしまっているのは、
立場の弱い人間を自分の思い通りにすることの
気持ちよさだったり、自分が抱える不満を
立場の弱い人間に擦り付けることの
たやすさに原因があるのだろうと思います。
そういった手段に手を染めなければならない
私達一人一人の状況も、きっとこんなふうに
子どもの頃から育てられてきたのだろうことを
思えば、想像できないことはありません。

でも、そうやって他人を自分の理想どおりに
したくてしょうがない人達を喜ばせてあげる
必要なんてないし、誰かをその人のストレスの
はけ口に使わせてやる必要もありません。
その人が受けた傷は、何よりその人自身が
報われることで解決すべきです。
常に誰かが誰かの慰み物であるという状態は、
もうそろそろ脱していくべきです。

それが、圧倒的に弱い立場にいる子ども達が
これ以上つらい思いをしないで済むための、
立場の弱い者が保護され、誰もがその人自身の
尊厳を守られる社会にしていくための、
一つの道筋であろうと思います。

子どもを死なせたくないと思うなら、
子どもに幸せになって欲しいと願うなら、
まず大人である自分達がいま抱えるもの、
自分達がこれまでため込んできたものと
向き合う勇気を。

「ひといちばい敏感な子」

数ヶ月前にその言葉を初めて知ってから、
何となくこれなんじゃないかなぁと
2人で予想を立てていた「HSC」。

今回、それについて書かれた本
「子育てハッピーアドバイス」のシリーズで
出るというので、楽しみにしていました。
このシリーズ、私達2人が子を持つよりも前に
自分自身と向き合う上で非常に助けられてきた
我が家になくてはならないものだったので、
まさにきなこが学校に行けなくなった
このタイミングでの発売に、またもや
助け船になってくれるのではないかと
大いに期待をしていたのでした。

読んでみて、一言で言えば
「ビンゴ」だったな、と思っています。
HSCの特徴として例示されているものに
あまりにもきなこが当てはまっていて、
そのまますぎて笑ってしまうくらいなものも
いくつも出てきました。
この6年間で「難しいな」と感じていたことの
いろんなことがこの本に書かれているような、
それくらいの実感を持っています。

そしてさらには、そこに書かれていた特徴は
親である自分達自身にもかなりの確率で
当てはまっていたのでした。
要するに、親子3人そろってどうやら
HSP(Highly Sensitive Person)でした、
という話だったようです。
何というか、そりゃあこの2人から生まれれば
そうなるかーという感じで、
ちょっと割り切れた所はありました。
これまで1ヶ月くらい、幼稚園の
登園拒否の頃から考えれば約1年近く、
何が正解なのか、どうすればいいのか
わからないままあがいていたのが
ようやく少し納得できたような気がします。

ただ、そのHSCの特性が表れる強さは
きっと人それぞれバラバラなのだろうし、
そもそもここに書かれている特徴は
誰だって1つくらいは当てはまるんじゃないか
とも感じたのでした。
本には人口の2割ぐらいとあったけれど
それは明らかにHSCであると言える人だけで、
本当はもっとたくさんの人がそういう部分に
多かれ少なかれ生きづらさを感じながら、
それでも何とか周りに合わせるために我慢して
自分を押し殺して生きてきたんじゃ
ないだろうかと感じてしまったのでした。

たまたま我慢してしまえる程度だった。
もしくはとてもそんなつらさを
口にできるような環境じゃなかった。
そういう人達の声は表に出ないまま、
この社会はいろんなものを無視してきた。
今日この日にも、本当はたまらなく嫌な思い、
逃げ出したい思いを抱えながらギリギリで
学校に行っている子どもがいるかもしれない。
彼らの声を聞こうという姿勢にどれだけ
なれているのか。
一種類の人間しか想定しない社会、
一種類の教え方しか用意しない学校の
在り方そのものに無理があるのだという
起点に立たなければならないのではないか
と思います。

とはいえ、さし当たり今現在学校に
行けていない我が子の対応を考えなければ
なりません。
これまで自分達の知識が足りず、
誤った対応、よくない言動をたくさん
ぶつけてきてしまいました。
入学からここまで、こちらからは見えない
たくさんの努力と我慢をしてきたのだろうと
思います。
だからこそ限界が来てしまった。

本の中にも、手が掛かるということは
それだけ本人がそういう自分を出せる環境だと
思っているから、という話がありました。
今回学校に行きたくないとはっきり意思表示を
してくれたことをむしろ喜んで、
今後彼女がどうすれば安心して勉強ができて、
どうすれば小学校で身につけるべき知識を
蓄えていくことができるのか、
具体的な手だてを打っていきたいと思います。
取り急ぎ、来週には学校でそういった話を
する機会が持てそうなので、
その際にはぜひ今回のこの本を持ち込んで、
うちの子の特性について理解してもらう
一助になってもらえたらと思っています。

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まだまだこれからだけど、心が晴れたという
実感はあったような気がします。

過去最大のギリギリ

今週、ついにきなこは1日しか学校に
行けませんでした。
もうそろそろ「行けないこと」を前提にした
対応を、取っていく必要があるのだろうと
思っています。
と、今でこそ冷静にそんなことを書いてますが
正直この一週間はこれまでの子育て経験で
最大というくらいのつらい一週間でした。
この毎日どっちに転ぶかわからない感じと、
その時にどういう対応を取ったらいいのかが
わからない感じが本当にしんどくて、
きなこを追いつめるような言い方も
してしまったし、今までたくさん考えて
実践してきたつもりのことが何一つ
役に立たない無力感のようなものに
押しつぶされそうになって、
内心泣きながら毎日過ごしていました。

「休んでいいよ」と言ってしまうのは簡単。
でもそうすると妻に子ども2人の相手を
毎日任せることになってしまう。
ただでさえあんこはイヤイヤの絶頂かつ
ますます発達の偏りが濃厚になってきて
むちゃくちゃ手がかかる状態。
そこへ持ってきて、休んでいることで
本来なら学校で収得できたはずの知識を
補うだけの学習を子ども自身にさせる、
という労力が追加されることになる。
そんなの絶対無理です。

今までだってわかっていたことですが、
我が家はほんのちょっとしたことで
たちまち立ち行かなくなるような
危うい状態で日々回しているんだということを
改めて突きつけられた一週間でした。
これまで、いざという時には外部に救いを
求められるように備えることを怠ってきた、
(それをする余裕もなかったからですが)
そのしっぺ返しを受けているような感じ
なんだろうと思います。

だからと言って「無理です!」と両手を
上げたところで事態はよくならないので、
とにかく家庭学習を前提に
「休んでいる時にどう過ごすか」を
きなこと話し合いました。
そして手始めに図書館で大量の本を借りてきて
さらに各種ドリルも用意し、
また学習アプリをインストールして
「やれることをやっていこう」と
いうことにしました。

担任にも相談したものの、
ただ「学校に来ることの大切さ」をとうとうと
語られただけだったのであまり期待せず、
ひとまず宿題はやること、
その日授業でやる内容を教えてもらうこと、で
あとは現状維持ということになりました。

これまでに得た情報から、おそらく本人は
HSC(ひといちばい敏感な子)
なんだろうな、という予測を立てています。
ただそれは気質でしかなく、
病院で診断が下りるようなものではないので、
結局それによって何かの支援や配慮が
社会から受けられるわけでもなさそうです。
ただ、自分たちの中で「そういう子なんだ」と
理解しておくことで周りにそれが説明できたり
自分たちなりの対応が取れることになるので、
来週出るこの本もぜひ読んでおきたいと
思っています。
HSCの子育てハッピーアドバイス

あと一つ、今週末に思ったこと。
きなこが学校を嫌な理由は未だにはっきりとは
わからないままですが、聞き出せたのは
「面倒くさいから」。
その言葉だけを聞くと「それぐらいで…」と
思ってしまうけれど、ただ本人にとっては
その「面倒くささ」が我々が思うレベルとは
もしかしたら全然違うのかもしれません。
というのも、土曜の夜にまたいつもの
「お風呂入りたくない」が出て、
ただその前の日も入ってなかった上に
その日は30℃超えの真夏日
おまけに自転車で図書館まで行ったため
一度ならず汗だくになっていた日。
お風呂に入った方がいい理由はこれまでに
もう何十回とやり取りして説明してきたこと。
それでもなお「面倒くさい」が勝ってしまって
結局この日もお風呂には入らなかったのです。

一度「嫌」の方にスイッチが入ってしまったら
もう何があっても判断を変えないという
とてつもない頑固さがあるのか、
それともやっぱり「面倒くさい」の感覚が
我々が想像しているレベルとは全然違うのか、
はたまたその両方なのかはわかりませんが、
とにかくそういう傾向が学校へ行けなさに
かなり関係していそうだなということは
今回改めて感じたことでした。

既に明日は行かない宣言が出ているので、
ある意味ハッキリしている分だけ楽です。
これから先もこのギリギリの状況を、
自分たちの身が持つ限り2人だけで
乗り越えていかなきゃいけないので、
せめて睡眠だけはなるべく多く
取っておこうかと思います。
おやすみなさい。

居場所がなさすぎる

今週、きなこは5日のうち2日しか
学校に行けませんでした。
前の週の旅行が終わってしまい
お楽しみが何もなくなったことが
影響したのかもしれませんが、
こちらも週の半ばの日に出発の直前になって
突然グズグズし出すというような事態を
想定できなかったこともあって、ずいぶんと
よくない対応を取ってしまいました。
3回目の休みの時には改めてお互いに
じっくり話をし、先生にも状況を伝えたので、
明日以降もそうなるようなら
そういうものとして、本人を追い込まずに
済むように対応していこうと思います。

そんな平日が終わった土曜日、久しぶりに
児童館に子ども達を連れて行きました。
するとたまたま同じクラスの子が来ていて、
あちらも顔見知りの来訪が嬉しかったのか
何かと世話を焼いたり誘ってきたりしました。
正直、マイペースに遊びたいタイプのきなこは
終始微妙な表情だったのですが、かつその子は
以前からその児童館によく来ているらしく
相当そこでの決まりごとにも通じていて、
きなこや僕がそれに合わないことをすると
その都度すごい勢いで指摘をしてくるので、
最終的にはきなこも嫌になってしまい
半ば逃げるようにまだ遊び足りない様子の
あんこを引っ張ってその場を後にしました。

きっとその子も普段から家庭などで相当厳しく
言われているからこそなんだろうなぁと
ちょっと気の毒な気持ちもありつつ、
これまできなこにとって息抜きの場だった
はずの児童館が、小学生になったとたんに
ガチガチのルールに縛られた居づらい場所に
変わってしまったのだろうか…と思うと
不憫でなりません。

というのも実はそういうことは他にもあって、
たとえばお店のキッズスペース。
ただでさえ数そのものが減ったりしている中、
せっかくあっても対象は「小学生未満」。
きなこは学校に行くようになったことで
そこでは遊べなくなってしまいました。
確かに1~2歳の子どももいる中に
小学生が入っていくと怪我をさせたりして
危ないというのはわかります。でも、
本人にとってはちょっと前まで遊べた場所が
急に立ち入り禁止になったわけで、
当然不満タラタラです。
実際問題、そんなふうに小1になったとたんに
遊べる場所が一気に減ってしまったな…という
印象を最近すごく受けるわけです。

考えてみると事態は思った以上に深刻で、
我が家の状態で学童になんて当然入れないし、
学校が用意している「ひろば」的な居場所も
そもそも学校自体が嫌なのに行くわけないし、
街には子どもが行って楽しいお店が
どんどん減っていって代わりに年寄り向けの
ものになっていってるし、
きなこにとって「ただ居られる場所」が
いくら探しても自宅以外にないんです。

きっと他の子達はさっさと友達を作って
お互いの家に行ったりしているのでしょう。
でも彼女は幼稚園の途中から行けなくなった
こともあって、ほぼそういう関係を築けずに
ここまで来てしまいました。
そしてすでに学校でも同じような状況に
なりつつあり、それに加えて今回の児童館の
ようなことがあれば、ますます友達関係を
作るのが恐くなってしまうのではという気が
しています。

現状習い事として週一回教室には通っていて
そこはずいぶん楽しそうに行っていますが、
それだって「何かをしなければならない場所」
であることには変わりがありません。
行く以上はやることが決まっていて、それに
一生懸命取り組まないといけないのです。
そうじゃなくてもっと「ただ居られる場所」、
別に何もしてなくてもいいからそこに行って
ただ過ごして帰ってこられるような場所が
本当に見当たらないことに愕然としています。

うちの子以外にも、そういう境遇になって
つらい思いをしている子どもってのは
いたりしないんだろうか。
小学校に行きだしたことで急に過ごせる場所が
なくなってしまい、路頭に迷っている子どもは
他にいないんだろうか。
それこそ、今の自分に有り余るほどのお金と
時間があったら、そういう場所を作って
「別に周りの子としゃべらなくてもいいし
皆と何かをしようとかしなくてもいいから
ただ来て過ごしてていいよ」
みたいな居場所を提供してあげたいなぁ
ぐらいのことを考えたのでした。

ちなみに同じようにきなこにとって大好きな
場所だった子育て支援施設の一時預かりも、
小学生になったことで行けなくなりました。
そして今度はあんこを預かってもらおうにも、
予約受付初日でその月の分がすべて
埋まってしまって取れないという状況が
ここ最近続いています。
未就学時だってやっぱり居場所はないんです。
何なんですかね、この国。

尊厳を削る場所

学校が始まって1週間が経ちました。
タイトルは、今の時点で学校という
場所に対して感じていることです。

ともかく、きなこが無事に1週間
学校に行けたことを喜びたいと思います。
月曜の朝は本人もずいぶん早く起きてきて、
穏やかながらも緊張感が漂う中で準備が進み
結果ずいぶん時間が余ってしまってからの
登校になりました。
帰ってから「楽しかった」という言葉が
出たと聞いた時は正直ほっとしたものです。

とはいえ初めてのことの連続で緊張もするし
疲れもするはずで、最初こそ気合いで何とか
していたのかもしれませんが、それも尽きた
水曜の朝には早速泣きつかれ、家族全員で
何とか支えてヘトヘトになりながら金曜まで
かろうじて辿り着いた、という感じでした。

この土日は思い切り羽を伸ばして
楽しそうにしていましたが、
明日からは給食というさらに大きな
ハードルが待ち構えているということで
予想通り夜にはずいぶん荒れていました。
できる限りのフォローはしたので、あとは
何とか本人の力で乗り越えてくれることを
祈りたいと思います。

そして、そんな本人の頑張りとは別に
やっぱりというか学校のやり方への疑問が
早速いくつも噴出し、それへの対応に
追われた一週間でもありました。
具体的に挙げ始めるときりがないので
やめておきますが、一つだけ例として
初日の夜に本人から言われた話を。

教室で体育着に着替える際、
肌着まで脱ぐよう指示されたというのです。
もちろん、クラスの生徒全員がです。
恐らくほとんどの子ども達はそのことに
別に何の抵抗も感じなかったのでしょう。
でも、そうじゃなかった子だって
きっと何人かはいたはずだと思うのです。
学校側は、そんな子どもの「みんなの前で
肌は出したくない」という思いを無視した。

それに加えて、そのことに関してこれまで
特に基準を持っていなかった子ども達に対して
「6歳程度で裸になることに恥じらいなんか
感じるはずがない」という価値観を、
大人の側が提示してしまった。
そんなことで恥ずかしいと感じる
自分の方がおかしいのじゃないか、と
子どもに思わせてしまった。

別に学校側にそんな意図はないことは
聞けばわかることだったし、向こうは向こうで
いちいち個別に対応していられない状況が
そうさせたということもわかるのですが、
そうやって子どもの気持ちを無視することに
あまりにも無自覚であることが、早1日目で
見えてしまったことは結構ショックでした。
今回たまたま本人の申告でわかったけれど、
今後こんなふうに子どもの尊厳を平気で
削るようなことが今後いくらでも起きるのか
と思うと、さすがに気が滅入ります。

学校側に明らかに人手が足りてないことも、
現場が相当に疲弊していることも、
入学式を見ただけで何となくわかりました。
「一人一人の子どもの気持ちなんて考えて
いられるか!」という状況なのでしょう。
でもそこで「先生方も大変なんだから…」と
こちらが気を遣って引いてしまったら、
結局そのしわ寄せは全て子ども達に行くし、
そうやって自分を尊重する気持ちを
育ませてもらえなかった子どもがやがて
子どもの自尊心を育めない大人になっていく、
という連鎖は止められないと思うのです。
学校に子ども達の尊厳を守れるだけの、
かつそれによって先生方が無理を
強いられなくても済むだけの体制づくりと、
それを実現するのに十分なお金が
きちんと教育に回っていく社会を目指すのは、
私達大人の側の責務だと思います。

というかそれ以前に、自分の子どもが
そうやって雑な扱いを受けることを
単純に黙っているわけにはいかないのです。
別に相手側を責めることは必要ないので、
疑問に思ったことは疑問として
きちんと表明をしていきたいと思っています。
確実にめんどくさい奴になっていくのだろうと
自覚していますが、「その感覚おかしいよ!」
という人間がいない限り
その集団の偏りは補正されないままなので、
ひとまずやれる範囲で動いてみようかな、と
思っている次第です。

もしもそれによって排除されるなら、
そんなところに行かずに済んでよかったね、
と家族で言い合うことになるかも
しれませんが。