シーホースとナッツ

長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育て中に考えたこと、の保管場所。

「ひといちばい敏感な子」

数ヶ月前にその言葉を初めて知ってから、
何となくこれなんじゃないかなぁと
2人で予想を立てていた「HSC」。

今回、それについて書かれた本
「子育てハッピーアドバイス」のシリーズで
出るというので、楽しみにしていました。
このシリーズ、私達2人が子を持つよりも前に
自分自身と向き合う上で非常に助けられてきた
我が家になくてはならないものだったので、
まさにきなこが学校に行けなくなった
このタイミングでの発売に、またもや
助け船になってくれるのではないかと
大いに期待をしていたのでした。

読んでみて、一言で言えば
「ビンゴ」だったな、と思っています。
HSCの特徴として例示されているものに
あまりにもきなこが当てはまっていて、
そのまますぎて笑ってしまうくらいなものも
いくつも出てきました。
この6年間で「難しいな」と感じていたことの
いろんなことがこの本に書かれているような、
それくらいの実感を持っています。

そしてさらには、そこに書かれていた特徴は
親である自分達自身にもかなりの確率で
当てはまっていたのでした。
要するに、親子3人そろってどうやら
HSP(Highly Sensitive Person)でした、
という話だったようです。
何というか、そりゃあこの2人から生まれれば
そうなるかーという感じで、
ちょっと割り切れた所はありました。
これまで1ヶ月くらい、幼稚園の
登園拒否の頃から考えれば約1年近く、
何が正解なのか、どうすればいいのか
わからないままあがいていたのが
ようやく少し納得できたような気がします。

ただ、そのHSCの特性が表れる強さは
きっと人それぞれバラバラなのだろうし、
そもそもここに書かれている特徴は
誰だって1つくらいは当てはまるんじゃないか
とも感じたのでした。
本には人口の2割ぐらいとあったけれど
それは明らかにHSCであると言える人だけで、
本当はもっとたくさんの人がそういう部分に
多かれ少なかれ生きづらさを感じながら、
それでも何とか周りに合わせるために我慢して
自分を押し殺して生きてきたんじゃ
ないだろうかと感じてしまったのでした。

たまたま我慢してしまえる程度だった。
もしくはとてもそんなつらさを
口にできるような環境じゃなかった。
そういう人達の声は表に出ないまま、
この社会はいろんなものを無視してきた。
今日この日にも、本当はたまらなく嫌な思い、
逃げ出したい思いを抱えながらギリギリで
学校に行っている子どもがいるかもしれない。
彼らの声を聞こうという姿勢にどれだけ
なれているのか。
一種類の人間しか想定しない社会、
一種類の教え方しか用意しない学校の
在り方そのものに無理があるのだという
起点に立たなければならないのではないか
と思います。

とはいえ、さし当たり今現在学校に
行けていない我が子の対応を考えなければ
なりません。
これまで自分達の知識が足りず、
誤った対応、よくない言動をたくさん
ぶつけてきてしまいました。
入学からここまで、こちらからは見えない
たくさんの努力と我慢をしてきたのだろうと
思います。
だからこそ限界が来てしまった。

本の中にも、手が掛かるということは
それだけ本人がそういう自分を出せる環境だと
思っているから、という話がありました。
今回学校に行きたくないとはっきり意思表示を
してくれたことをむしろ喜んで、
今後彼女がどうすれば安心して勉強ができて、
どうすれば小学校で身につけるべき知識を
蓄えていくことができるのか、
具体的な手だてを打っていきたいと思います。
取り急ぎ、来週には学校でそういった話を
する機会が持てそうなので、
その際にはぜひ今回のこの本を持ち込んで、
うちの子の特性について理解してもらう
一助になってもらえたらと思っています。

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まだまだこれからだけど、心が晴れたという
実感はあったような気がします。

過去最大のギリギリ

今週、ついにきなこは1日しか学校に
行けませんでした。
もうそろそろ「行けないこと」を前提にした
対応を、取っていく必要があるのだろうと
思っています。
と、今でこそ冷静にそんなことを書いてますが
正直この一週間はこれまでの子育て経験で
最大というくらいのつらい一週間でした。
この毎日どっちに転ぶかわからない感じと、
その時にどういう対応を取ったらいいのかが
わからない感じが本当にしんどくて、
きなこを追いつめるような言い方も
してしまったし、今までたくさん考えて
実践してきたつもりのことが何一つ
役に立たない無力感のようなものに
押しつぶされそうになって、
内心泣きながら毎日過ごしていました。

「休んでいいよ」と言ってしまうのは簡単。
でもそうすると妻に子ども2人の相手を
毎日任せることになってしまう。
ただでさえあんこはイヤイヤの絶頂かつ
ますます発達の偏りが濃厚になってきて
むちゃくちゃ手がかかる状態。
そこへ持ってきて、休んでいることで
本来なら学校で収得できたはずの知識を
補うだけの学習を子ども自身にさせる、
という労力が追加されることになる。
そんなの絶対無理です。

今までだってわかっていたことですが、
我が家はほんのちょっとしたことで
たちまち立ち行かなくなるような
危うい状態で日々回しているんだということを
改めて突きつけられた一週間でした。
これまで、いざという時には外部に救いを
求められるように備えることを怠ってきた、
(それをする余裕もなかったからですが)
そのしっぺ返しを受けているような感じ
なんだろうと思います。

だからと言って「無理です!」と両手を
上げたところで事態はよくならないので、
とにかく家庭学習を前提に
「休んでいる時にどう過ごすか」を
きなこと話し合いました。
そして手始めに図書館で大量の本を借りてきて
さらに各種ドリルも用意し、
また学習アプリをインストールして
「やれることをやっていこう」と
いうことにしました。

担任にも相談したものの、
ただ「学校に来ることの大切さ」をとうとうと
語られただけだったのであまり期待せず、
ひとまず宿題はやること、
その日授業でやる内容を教えてもらうこと、で
あとは現状維持ということになりました。

これまでに得た情報から、おそらく本人は
HSC(ひといちばい敏感な子)
なんだろうな、という予測を立てています。
ただそれは気質でしかなく、
病院で診断が下りるようなものではないので、
結局それによって何かの支援や配慮が
社会から受けられるわけでもなさそうです。
ただ、自分たちの中で「そういう子なんだ」と
理解しておくことで周りにそれが説明できたり
自分たちなりの対応が取れることになるので、
来週出るこの本もぜひ読んでおきたいと
思っています。
HSCの子育てハッピーアドバイス

あと一つ、今週末に思ったこと。
きなこが学校を嫌な理由は未だにはっきりとは
わからないままですが、聞き出せたのは
「面倒くさいから」。
その言葉だけを聞くと「それぐらいで…」と
思ってしまうけれど、ただ本人にとっては
その「面倒くささ」が我々が思うレベルとは
もしかしたら全然違うのかもしれません。
というのも、土曜の夜にまたいつもの
「お風呂入りたくない」が出て、
ただその前の日も入ってなかった上に
その日は30℃超えの真夏日
おまけに自転車で図書館まで行ったため
一度ならず汗だくになっていた日。
お風呂に入った方がいい理由はこれまでに
もう何十回とやり取りして説明してきたこと。
それでもなお「面倒くさい」が勝ってしまって
結局この日もお風呂には入らなかったのです。

一度「嫌」の方にスイッチが入ってしまったら
もう何があっても判断を変えないという
とてつもない頑固さがあるのか、
それともやっぱり「面倒くさい」の感覚が
我々が想像しているレベルとは全然違うのか、
はたまたその両方なのかはわかりませんが、
とにかくそういう傾向が学校へ行けなさに
かなり関係していそうだなということは
今回改めて感じたことでした。

既に明日は行かない宣言が出ているので、
ある意味ハッキリしている分だけ楽です。
これから先もこのギリギリの状況を、
自分たちの身が持つ限り2人だけで
乗り越えていかなきゃいけないので、
せめて睡眠だけはなるべく多く
取っておこうかと思います。
おやすみなさい。

居場所がなさすぎる

今週、きなこは5日のうち2日しか
学校に行けませんでした。
前の週の旅行が終わってしまい
お楽しみが何もなくなったことが
影響したのかもしれませんが、
こちらも週の半ばの日に出発の直前になって
突然グズグズし出すというような事態を
想定できなかったこともあって、ずいぶんと
よくない対応を取ってしまいました。
3回目の休みの時には改めてお互いに
じっくり話をし、先生にも状況を伝えたので、
明日以降もそうなるようなら
そういうものとして、本人を追い込まずに
済むように対応していこうと思います。

そんな平日が終わった土曜日、久しぶりに
児童館に子ども達を連れて行きました。
するとたまたま同じクラスの子が来ていて、
あちらも顔見知りの来訪が嬉しかったのか
何かと世話を焼いたり誘ってきたりしました。
正直、マイペースに遊びたいタイプのきなこは
終始微妙な表情だったのですが、かつその子は
以前からその児童館によく来ているらしく
相当そこでの決まりごとにも通じていて、
きなこや僕がそれに合わないことをすると
その都度すごい勢いで指摘をしてくるので、
最終的にはきなこも嫌になってしまい
半ば逃げるようにまだ遊び足りない様子の
あんこを引っ張ってその場を後にしました。

きっとその子も普段から家庭などで相当厳しく
言われているからこそなんだろうなぁと
ちょっと気の毒な気持ちもありつつ、
これまできなこにとって息抜きの場だった
はずの児童館が、小学生になったとたんに
ガチガチのルールに縛られた居づらい場所に
変わってしまったのだろうか…と思うと
不憫でなりません。

というのも実はそういうことは他にもあって、
たとえばお店のキッズスペース。
ただでさえ数そのものが減ったりしている中、
せっかくあっても対象は「小学生未満」。
きなこは学校に行くようになったことで
そこでは遊べなくなってしまいました。
確かに1~2歳の子どももいる中に
小学生が入っていくと怪我をさせたりして
危ないというのはわかります。でも、
本人にとってはちょっと前まで遊べた場所が
急に立ち入り禁止になったわけで、
当然不満タラタラです。
実際問題、そんなふうに小1になったとたんに
遊べる場所が一気に減ってしまったな…という
印象を最近すごく受けるわけです。

考えてみると事態は思った以上に深刻で、
我が家の状態で学童になんて当然入れないし、
学校が用意している「ひろば」的な居場所も
そもそも学校自体が嫌なのに行くわけないし、
街には子どもが行って楽しいお店が
どんどん減っていって代わりに年寄り向けの
ものになっていってるし、
きなこにとって「ただ居られる場所」が
いくら探しても自宅以外にないんです。

きっと他の子達はさっさと友達を作って
お互いの家に行ったりしているのでしょう。
でも彼女は幼稚園の途中から行けなくなった
こともあって、ほぼそういう関係を築けずに
ここまで来てしまいました。
そしてすでに学校でも同じような状況に
なりつつあり、それに加えて今回の児童館の
ようなことがあれば、ますます友達関係を
作るのが恐くなってしまうのではという気が
しています。

現状習い事として週一回教室には通っていて
そこはずいぶん楽しそうに行っていますが、
それだって「何かをしなければならない場所」
であることには変わりがありません。
行く以上はやることが決まっていて、それに
一生懸命取り組まないといけないのです。
そうじゃなくてもっと「ただ居られる場所」、
別に何もしてなくてもいいからそこに行って
ただ過ごして帰ってこられるような場所が
本当に見当たらないことに愕然としています。

うちの子以外にも、そういう境遇になって
つらい思いをしている子どもってのは
いたりしないんだろうか。
小学校に行きだしたことで急に過ごせる場所が
なくなってしまい、路頭に迷っている子どもは
他にいないんだろうか。
それこそ、今の自分に有り余るほどのお金と
時間があったら、そういう場所を作って
「別に周りの子としゃべらなくてもいいし
皆と何かをしようとかしなくてもいいから
ただ来て過ごしてていいよ」
みたいな居場所を提供してあげたいなぁ
ぐらいのことを考えたのでした。

ちなみに同じようにきなこにとって大好きな
場所だった子育て支援施設の一時預かりも、
小学生になったことで行けなくなりました。
そして今度はあんこを預かってもらおうにも、
予約受付初日でその月の分がすべて
埋まってしまって取れないという状況が
ここ最近続いています。
未就学時だってやっぱり居場所はないんです。
何なんですかね、この国。

尊厳を削る場所

学校が始まって1週間が経ちました。
タイトルは、今の時点で学校という
場所に対して感じていることです。

ともかく、きなこが無事に1週間
学校に行けたことを喜びたいと思います。
月曜の朝は本人もずいぶん早く起きてきて、
穏やかながらも緊張感が漂う中で準備が進み
結果ずいぶん時間が余ってしまってからの
登校になりました。
帰ってから「楽しかった」という言葉が
出たと聞いた時は正直ほっとしたものです。

とはいえ初めてのことの連続で緊張もするし
疲れもするはずで、最初こそ気合いで何とか
していたのかもしれませんが、それも尽きた
水曜の朝には早速泣きつかれ、家族全員で
何とか支えてヘトヘトになりながら金曜まで
かろうじて辿り着いた、という感じでした。

この土日は思い切り羽を伸ばして
楽しそうにしていましたが、
明日からは給食というさらに大きな
ハードルが待ち構えているということで
予想通り夜にはずいぶん荒れていました。
できる限りのフォローはしたので、あとは
何とか本人の力で乗り越えてくれることを
祈りたいと思います。

そして、そんな本人の頑張りとは別に
やっぱりというか学校のやり方への疑問が
早速いくつも噴出し、それへの対応に
追われた一週間でもありました。
具体的に挙げ始めるときりがないので
やめておきますが、一つだけ例として
初日の夜に本人から言われた話を。

教室で体育着に着替える際、
肌着まで脱ぐよう指示されたというのです。
もちろん、クラスの生徒全員がです。
恐らくほとんどの子ども達はそのことに
別に何の抵抗も感じなかったのでしょう。
でも、そうじゃなかった子だって
きっと何人かはいたはずだと思うのです。
学校側は、そんな子どもの「みんなの前で
肌は出したくない」という思いを無視した。

それに加えて、そのことに関してこれまで
特に基準を持っていなかった子ども達に対して
「6歳程度で裸になることに恥じらいなんか
感じるはずがない」という価値観を、
大人の側が提示してしまった。
そんなことで恥ずかしいと感じる
自分の方がおかしいのじゃないか、と
子どもに思わせてしまった。

別に学校側にそんな意図はないことは
聞けばわかることだったし、向こうは向こうで
いちいち個別に対応していられない状況が
そうさせたということもわかるのですが、
そうやって子どもの気持ちを無視することに
あまりにも無自覚であることが、早1日目で
見えてしまったことは結構ショックでした。
今回たまたま本人の申告でわかったけれど、
今後こんなふうに子どもの尊厳を平気で
削るようなことが今後いくらでも起きるのか
と思うと、さすがに気が滅入ります。

学校側に明らかに人手が足りてないことも、
現場が相当に疲弊していることも、
入学式を見ただけで何となくわかりました。
「一人一人の子どもの気持ちなんて考えて
いられるか!」という状況なのでしょう。
でもそこで「先生方も大変なんだから…」と
こちらが気を遣って引いてしまったら、
結局そのしわ寄せは全て子ども達に行くし、
そうやって自分を尊重する気持ちを
育ませてもらえなかった子どもがやがて
子どもの自尊心を育めない大人になっていく、
という連鎖は止められないと思うのです。
学校に子ども達の尊厳を守れるだけの、
かつそれによって先生方が無理を
強いられなくても済むだけの体制づくりと、
それを実現するのに十分なお金が
きちんと教育に回っていく社会を目指すのは、
私達大人の側の責務だと思います。

というかそれ以前に、自分の子どもが
そうやって雑な扱いを受けることを
単純に黙っているわけにはいかないのです。
別に相手側を責めることは必要ないので、
疑問に思ったことは疑問として
きちんと表明をしていきたいと思っています。
確実にめんどくさい奴になっていくのだろうと
自覚していますが、「その感覚おかしいよ!」
という人間がいない限り
その集団の偏りは補正されないままなので、
ひとまずやれる範囲で動いてみようかな、と
思っている次第です。

もしもそれによって排除されるなら、
そんなところに行かずに済んでよかったね、
と家族で言い合うことになるかも
しれませんが。

仲良くやってける気がしない

入学式でした。

ある程度覚悟はしていたつもりだけど、
それをはるかに上回る現実が
そこには待ち受けておりました。

トータル2時間半くらいのその時間が
永遠に感じられるような苦痛さで、
本当にヘトヘトになって帰ってきました。
感覚としてはここ数年のうちで
一番疲れたんじゃないかというくらいです。

一緒に連れて行った現在2歳のあんこが、
その長くて退屈な時間を我慢できず
会場を走り回ったり、取り押さえられて
大声を上げたり、床に這いつくばったりは
まあ想定の範囲内だったのでいいです。
それより何よりその式のあり方自体が
「えっそれ何のためにやってんの?」という
疑問しかない感じで、とにかく脳への
ストレスがすごかった、ということです。

とても全ては挙げきれませんが、
この日一日で感じた疑問をいくつか。

なぜ、校長から子どもへのお祝いの言葉を
途中で切ってまで、わざわざ親と来賓への
お礼を挟まなければならないのか。
なぜそのあと来賓全員をご丁寧に一人一人
紹介し、その度に判で押したような
「おめでとうございます」をもらっては
子ども達から「ありがとうございます」を
言わせなければならないのか。
その来賓が出席しているのにも関わらず、
その人間の所属組織が定型文の祝電を打って
さらにそれを本人の前で読み上げるのか。

なぜ、上級生が新入生へのお祝いの歌を
歌うという状況で、主賓であるはずの
1年生達を起立させて礼までさせるのか。
なぜおおよそ子ども達が一度も聴く機会など
なかったであろう、校歌や自治体の歌を
会場全体を起立させてまで歌わせるのか。

なぜ、式のあとで教室に親を移動させるのに
合図もなければ地図も出さず人も立たせず
「勝手に辿り着け」とばかりに放置するのか。
その教室に軽く50人以上が押し込められるのが
わかっていながら、なぜエアコンもかけず
窓も開けずに長時間配布物の説明をするのか。
なぜその間ただただ子ども達を待たせながら
プリントに同じことが書いてある内容を
予定時間を大幅に押してまで話し続けるのか。

なぜ、その配布物は話される説明の順ではなく
それを用意した組織毎に分けられているのか。
なぜ頼んでもないクソ重い新品の教科書を、
ただ税金をそこに回しているだけにも関わらず
「これは国が無償で配布しているものです」
という文言を刷った封筒に入れて渡すのか。
なぜ、貸与にすれば持ち帰らずに済むものを
わざわざ全員に配って大人でも引くくらいの
総重量にして、子どもに毎日背負わせるのか。

なぜPTAは、任意加入であることも言わず
退会の手続きのことも触れない会の規約を含む
一切のものを入学時にいきなり押しつけ、
しかもその中の一つを学校側が指定する
子どもの携行物に組み込み、さらに「お願い」
と称した脅迫を配布物の至る所に散りばめ、
「これをやればその後の兵役は免除されます」
とでもいうようなシステムを作ってまで
こちらの労働力を提供させようとするのか。
というか、そういう詐欺まがいのやり方を
しないと成り立たないような状態で
組織運営をさせられているのか。

他にも名前付けのことや提出物のことなど
挙げだしたらきりがないほどありますが、
式に限って言えば
とにかく大人への目配せがひどい、という
印象でした。

上に書いた来賓への低姿勢はもちろん、
親達に対しても「私達がんばってますよ」的な
アピールがすごいというか、
こんなにも子ども達のためを思って
いろいろ考えてやってるんですよと言わないと
クレームでも入れられると恐れているのか
知らないけれど、いや本当に子どものことを
考えてるなら一刻も早くこの式を終わらせろ!
と心の中で何度も叫んでいました。

その後の教室での説明も、合理性って何かね
っていうぐらいの効率の悪さ。
こんな暑さと酸素の薄さと空腹の中で
いくら口頭で説明されたって、頭に入って
こないですよ。
ついこの間運転免許センターで更新した時に
一切無駄のない講習を受けたばかりだったので
「毎年やっててこれかよ!」とまたまた
心の中で叫んでしまいました。
意味も分からないまま長時間ただ待たせられた
きなこは、この時点で完全にキレてました。

わかってますよ。
そうやって長い時間でもじっと待てるように
なる為の、訓練をしてるって言うんでしょう?
そうやって不満を言わずに耐えられるように
なることが、大人になる上で身につけなきゃ
いけないことだって言うんでしょう?

冗談じゃないんだよ。
なんで大人のダメな部分に
子どもを揃えさせようとするんだよ。
それじゃ社会はいつまで経ったって
良くなっていかないじゃないか。

実家の親に写真を送ったら電話があったので
この日のことを盛大にグチったら、
「まあ入学式ってそんなもんだよね」と。
あんた達の時も大変だったんだよ、と。
それはつまり、30年以上前から
何一つ進歩してないってことじゃんか。
「そういうもの」って皆が思ってたら、
よくないものは永遠にそのままじゃないか。
と心の中で(以下略)

 

…と、もうたくさんの方々が同じように
疑問を感じ理不尽な思いをしてきたであろう
「学校」という場について、フレッシュな
リアクションでもって感想を書いてみました。

とにかく誰も子どもの方を向いてない
あの空間に対して、今後うまくつき合って
いける気が今は全くしていませんが、
それでも明日の朝には本人が一人で
そこに立ち向かっていかなければなりません。
こちらとしてはその頑張りを支えることに
注力していきたいと思います。

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あー空はこんなに青いのに、な気分ですよ。

そこに所属する意味

1月の時点でほぼ結論は出ていたので
若干今さら感がなきにしもあらずですが、
きなこが幼稚園を退園しました。

ただ、最後まで「休み続ける」のではなく
きっぱり退園という方向にシフトを
切ることになったのには、いくつかの
理由がありました。
その一番大きなものは、不登園になった
ばかりの10月の頃にすでに触れていた、
「そこに所属する意味」だったような
気がします。

ただ休んでいる状態だと、あくまで所属は
その幼稚園にあるので、周囲もその前提で
きなこと我々を扱うことになります。
そのことでいろんな人に気を遣わせて
しまうことにもなっていたし、
そういう宙ぶらりんな状態であることでの
イレギュラーさが、様々な場所で
ストレスを発生させていることは事実でした。
そのことの心苦しさを払拭したいという思いは
ここ数週間でかなり強くなっていました。

そして何より、幼稚園側から見れば
ちっとも来る気配がないとはいえ
あくまで自分のところの生徒ですから、
その親も含めそういうふうに扱ってきます。
結果、(おそらく善意で)復帰を促す
ような言葉が飛んでくることになるし、
(きっと良かれと思って)子どもの将来を
不安視するようなことを言ってくることに
なるわけです。

「今ここで頑張っておかないと、
 この先もっと大変な思いをしますよ。」
こんな呪いの言葉を、何で親に対して
投げかけなければならないのか。
「もっと子どものことを考えてあげて。」
どうして我々の罪悪感を刺激して、
まるでこちらが間違っているかのように
思わせなければならないのか。
それは全て、その子どもと親が
その場所に所属しているからです。

全くの他人であれば絶対に言わないような
失礼な言葉を平気で浴びせられるのは、
相手が自分達の集団の中にいる人間だと
認識しているからです。
そこから離脱することが良くないことだと
心から信じているから、何とかそれを
思いとどまらせようとして、それ故に
そうやってこちらを脅すような言動に
なってしまうのだろうと思います。

果たしてその場所に留まりたいが為に、
そんな扱いをされることは正当なのか。
その集団に属していたいからといって、
あらゆる不条理や侮辱に耐えなければ
ならないのか。
そこへの疑問が、休み続けるのではなく
退園へと動いた大きな要因になりました。

きなこ本人とも改めて話をし、
「卒園証書」が単なる紙切れであって
そんなもんべつにいらねーという返事と、
変わらず登園の意志はないことを確認し、
退園することで了承を得ました。
正直本人にとってはもうどっちでもいい
というのが実状だと思います。
ただ何となく我々が「一応可能性を残して
おいた方がよいのではないか」と
恐れていただけだと思います。

その不安こそ、我々が向き合うべきもの
であって、子どもがわざわざそれを
背負う必要などないものなのだと思います。
園から、上の世代から、そして
社会全体から植え付けられた呪いと
これからも戦っていくことになりますが、
ひとまず今回、状況がはっきりしたことを
歓迎したいと思います。
うちの子どもは「どこにも所属してない人」に
なりましたが、
私達の生活は特に何も変わりません。

大人として関わってくれる人

3連休でした。
の割には、ここ数週間の感じに比べれば
平和に過ごせたような気がします。
理由は特に思い当たりませんがよかったです。

きなこは今週、改めて自転車のペダルを
つけ直しました。
1ヶ月前に補助輪を外していましたが、
それにもだいぶ慣れてきたので
本人の希望でいよいよ自転車としての
完成形になりました。
とはいえやはりペダルを漕ぐのはまだ
恐怖があるらしく、3日間練習して
足を浮かせていられたのは数秒くらい。
まだまだ時間がかかりそうですが、
今の本人の夢は「自転車が乗れる人に
なること」だそうなので、頑張ります。

あんこも昨日2人で買い物に行って
気づいたのですが、以前に比べれば
じっとしていられる時間が増えたようです。
レジでお金を払ったり買った物を袋に
詰める間くらいは、その場に留まっていて
くれるようになりました。
言葉も毎日新しいものが増えてる感じだし、
布団を畳むのを手伝ってくれたり、
自分で靴下を履こうとしたりと
いろいろ成長の兆しが見えてきています。

ところで、今日の朝「みいつけた!」を
見ていた妻が「サボさんがウチにも
いてくれたらいいのに…」と呟きました。

ほんとです。
大人があと一人この家にいてくれたら、
我々はどんなに助かるかわかりません。
まあサボさんはさすがにパーフェクトすぎる
としても、ちゃんと子どもに対して
「大人として関わってくれる人」がいるだけで
現状子ども2人+猫2匹の面倒を見ている
我が家の負担は、格段に楽になります。

「大人として関わる」というのはつまり、
子どもを搾取する相手としてでも
支配する相手としてでもなく、
もちろん迫害する相手でもなく、
保護するべき存在、育む存在として
接してくれるということです。
相手との圧倒的な権力差を自覚して、
その持てる力を相手にぶつけないように
子ども達自身の育ちを見守り、
後押ししてくれる人のことです。

この社会にいる大人の数は子どもの数より
遙かに多いはずなのに、そんなふうに
「大人として関わって」くれる人の数の、
なんと少ないことか。
というかそもそも本人がまだ大人に
なりきれていない人達の、
なんと多いことか。

ほんとうに、もしこの国の大人達が
ちゃんとみんな大人になれて、
そしてもしもそれぞれが、いま親達の抱える
負担の何万分の一ずつでもいいから
分散して肩代わりしてくれたら、それだけで
子どもを産み育てることのハードルは
あっという間に下がるんじゃないかと、
個人的には思います。