シーホースとナッツ

長女「きなこ」と次女「あんこ」の子育て中に考えたこと、の保管場所。

「知りたい」という暴力

たまたまこの数日で、「子ども」にまつわる
2つのニュースに触れました。
一つは電車内で陣痛が始まってしまい
急遽その場で出産になってしまった件、
もう一つは3歳の息子さんを車に残して
目を離した隙に、行方不明になってしまい
後日遺体が発見されたという件。

一つ目はそんな環境で出産に到ってしまった
当事者の方を心よりお見舞いするとともに、
ともかく母子ともに無事だったことが
何より良かったと思いました。
二つ目はニュースを聞いているだけでも
泣きそうになるような痛ましい出来事です。
自分も、子どもから目を離してしまうことが
彼らが成長するにつれて増えているので
とても他人事とは思えないし、
ご自身の不注意から息子さんを亡くされた方の
心中を、とても察することなどできませんが
心から悼みたいと思いました。

ところがこの2つのニュースに、批判的な声が
多数あがっているようなのです。
もちろん全てを見たわけではありませんが、
中には目を覆いたくなるような心ない言葉が
ネット上にアップされたりしています。
ニュースを見てどんな感想を持とうが
その人の勝手なのかもしれませんが、
そういう声が、もし当事者の方々や
また同じようにつらい体験をされた方の
目に届いてしまったら…と思うと
とてもやりきれない気持ちになるし、
どうして大変な目に遭った方に
さらに追い打ちをかけるような言葉を
投げかけることができるのかと、
それを発した人達の人格を疑いたくなる
ぐらいの気持ちにすらさせられます。

ただ、それ以上に今回気になったのが
それらの出来事をニュースとして伝える、
メディアのやり方です。
一方では事件の現場に居合わせた乗客の
撮った写真や動画をそのまま流すメディア、
一方では事件でお子さんを亡くされた父親に
遺体が見つかった直後にインタビューして、
それを映像として流すメディア。

正直、そんなもの見たくなかった。
メディアの側は、それを流すことで
市民の知りたい気持ちを満たしてあげている
というサービス精神でしょうか。
はたまた我々の持つ「知る権利」を
保証してくれているつもりなのでしょうか。
でもそれによって、電車内で出産した女性と
生まれた子どもには好奇の目が向けられる
ことになり、個人を特定されるリスクも
高まってしまいました。
息子さんを亡くした父親には、
そのインタビューで話したこと自体によって
人格攻撃を含めたたくさんの批判が
集中してしまう結果になりました。
そもそも、それを伝える必要があったのか。
誰の、何のために、事件の当事者は
自分達の姿や声を大衆の前に
晒さなくてはならなかったのか。

我々は、知りたいことを知る権利と同時に、
「知られたくないことを知られない権利」も
同じだけ持っているはずです。
現代社会においては、権利と権利は常に
ぶつかり合うものなのだと学びました。
そしてそうやって権利の折衝が起こった時、
考慮されるのは「どちらが弱い立場か」。
より弱い立場の保護を優先させるために、
一方の権利は制限されることがあるのだと。
今回の件で言えば、大衆と個人です。
当然弱い立場である個人の保護が
先に来るべきであろうと思います。
果たして今回、そうやって当事者である
個人の尊厳を守るような伝え方が、
メディアの側にできていたでしょうか。

何をどう伝えるかは、きちんとしたルールが
あるわけではなく、メディアの側の倫理観や
自主的な姿勢に任されていると聞きます。
だからそこに関しては、われわれ市民が
こういう形で疑問の声を上げて
彼らに伝えていく必要があるのでしょう。
そして同時に、何より私たち自身の側にある
「知りたい」という欲望を、制御することが
求められるのだと思います。

恐らくメディア側には、
「大衆が知りたがるから伝えたんだ」という
言い訳が立ってしまっているのでしょう。
彼ら自身から見れば使命感かもしれません。
だからこそ、こちら側が「知りたくない!」
とはっきり言えるかどうか。
実際、特異な事件や出来事があった時に
私達はより詳しいことが知りたくなります。
それは単なる好奇心だけではなく、
「なぜそんなことが起きたのか」がわからない
ままだと、不安だからなのだと思います。
自分自身の心の安定のために、
よくわからないことをスッキリさせたいという
欲求が生まれているのだと。
でもそれが多数の人のものとして集まった時、
「みんなが知りたいからいいんだ」という
錦の御旗になってしまっているのでは
ないでしょうか。

そうやって一人一人の「知りたい」という
欲求が、多数派の名の下に正当化されることは
「暴力」にもなりうるのだということを、
私達は知っておく必要があると思います。
その欲望を垂れ流すことが、対象にされた人の
尊厳を踏みにじる可能性があるのだと。
そのことを自覚して、時には「知りたい」と
思ってしまうことをぐっとこらえて、
「知らないままの状態」でいられるように
なっていくことが求められていると思います。

そうでないと、万が一この先自分自身が
何かの事件の当事者になってしまった時、
私自身の「知られたくない権利」を保証して
くれるものが、何もなくなってしまう。
自分達が欲望をコントロールすることは、
自分自身の身を守ることにもなるのです。

そんなことを考えた、
今回の2つのニュースでした。

かつて子どもだった全ての皆さんへ

子どもの時代を経験したことのない方は
恐らくあまりいないのではと思いますが、
そんな、かつて子どもだった皆さんに
いま大人の顔をして生きている一人として、
謝らなくてはならないことがあります。

私達は、皆さんにひどいことをしてきました。
たとえば、
「言うことを聞きなさい」
という言葉。
言い方の違いこそあれ、同様の意味の言葉を
言われたことのない子どももまたそんなに
多くはないのではないかと思います。

当然子どもですから、最初のうちは
そんなこと言ったところで通じないでしょう。
その時、かなりの確率で大人はその後に
「もし聞かないなら…」と、まるで相手を
脅迫するような言葉を続けてしまいます。
さっさと起きないなら。
勉強しないなら。
残さず食べないなら。
ルールを守らないなら。
さらにその後ろにどんな言葉が入るかは
様々だったでしょうが、きっと子どもにとって
好ましいものは一つもなかったはずです。

私達大人は、そういう言葉を使うことで
子どもに言うことを聞かせてきました。
それは、「恐怖」を道具に使った脅迫であり、
支配であり、暴力であったと考えています。
たとえ直接叩くなどの行為に及んでいなかった
としても、これは暴力なのだと。

大人がそういうやり方を使ったのは、
何よりそれが楽だったからです。
とにかく子どもを自分達の思い通りに
コントロールするために、恐怖というのは
非常に手っ取り早い手段だったからです。
要するに、「よく効く」のです。
おそらくそれを言う時、私達自身の中に暴力を
振るっているという自覚はなかったでしょう。
それどころか、それが親の愛情なのだとか、
そうやって厳しくすることで子どもは成長する
などと思い込んでいたのでしょう。
あるいはそう言い訳することで、自分の中の
後ろめたさをごまかそうとしていたのかも
しれません。
いずれにしても、本当に多くの大人達が
当たり前のように、そのやり方を使って
子どもに言うことを聞かせてきました。

でも、体の大きさも、力の強さも、知っている
知識の量も、つながっている世界の広さも、
大人と子どもとでは圧倒的な差があります。
その関係の中で「言うことを聞かないなら…」
と脅されることは、子どもにとって
何より恐ろしいことであったのではないかと
思うのです。

子どもは、大人の援助がなければ
生きていくことすらできません。
そんな状況で、この人に従っていないと
援助を受けられなくなるかもしれない、
生きていくことができないかもしれないという
恐怖があれば、子どもだって言うことを
聞かずにはいられなくなるでしょう。
どれだけ大人の側に自覚がなかったとしても、
その言い方は子どもにとっては
命の危機に直結するような脅しとして
作用してしまっていたはずです。

さらにそういうことをすることで、
子どもの中には次の3つの気持ちが生まれて
いたのではないかと考えています。
まず1つが、逆らうと自分の身に恐ろしい
ことが起こるのではないかという恐怖。
もう1つは、どうせ何かを望んでも
聞いてもらえない、望みを持つと
かえってつらい思いをするという諦め。
そしてもう1つは、自分はこんな扱いを
受けても仕方のない人間なのだ、という
自己否定です。

そうやって生まれた気持ちは、
簡単には消すことができません。
人によっては、十分に大人の年齢になった
今になっても、その気持ちにとらわれて
苦しんでいるかもしれません。
恐怖を紛らすために安心感を求め続けたり、
何かを望むことはバカバカしいと冷笑して
まるで初めから諦めてしまうことが
大人な態度のようなポーズを取ってみたり、
自分は生きていてもしょうがないんだ
役に立たなければ価値がないんだと思い込み
さらに酷い扱いすらも受け入れてしまったり、
幸せになることがまるで悪いことのように
感じてしまったり。
そんな気持ちに、心当たりはないでしょうか。

ところで、大人達がそういうやり方でしか
子どもを育てられなかった理由には、
他にも思い当たることがあります。
その1つはその大人自身が、子どもの頃に
さらにその上の世代の大人達から
そういうふうに育てられてきたから。
そのやり方しか経験していないせいで、
「これが正しいやり方なんだ」と
思い込むしかなかったのです。
それが間違ったやり方だと認めることは、
自分達自身の子ども時代がいかに惨めで
どれだけ酷い扱いを受けてきたかを
正面から受け止めざるをえなくなります。
それができなくて、記憶を封印したり、
「あの時の苦しみには意味があったのだ」
と美化しようとしてしまったのです。
そしてそれと同じことが、皆さんの中でも
起きているのではないでしょうか。

さらにもう1つの理由。
たとえば母親が、自分の子どもに対して
言うことを聞かせられないのを見て、
怒ってくる人がいたからです。
「うるさい」
「しつけがなってない」
「それでも母親か」
そういう声から逃れるために、
とにかく早く子どもに言うことを聞かせる
必要があったのです。
親自身が、さらに強い「社会」の脅迫から
身を守らなくてはならなかった。

他にも、探せば理由は見つかるかもしれない。
ただここではっきりと言っておきたいのは、
それらの理由は全て、大人の側の都合なんだ
ということです。
別に子どもが頼んでそうしたわけじゃない。
自分のことを恐怖による暴力で脅して、
何でも言うことを聞く素直で従順な人間に
育てて欲しいと、子ども達自身が
望んだわけではないはずです。
全ては大人が、その大人達で作る社会が、
自分達の都合で好き勝手に子どもを扱い、
暴力を持ち出し、恐怖で支配し、
成長した後もそのダメージから
回復できない人間を作るようなことを、
繰り返してきた結果なのです。

私達は、そのことを反省しなければならない。
暴力を使ったやり方は間違いだったと、
はっきり言い切らなくてはならない。
私達大人は、子どもに暴力を振るい、
その尊厳を著しく傷つけてきた。
そのことを謝罪しなければなりません。
本当に、本当に申し訳なかった。

大人の役割は、子どもが自ら成長し
自立できるようになるまでの
サポートをすることです。
皆さんが「この世界に生まれて良かった」と
思えて、これから先の人生を楽しめるように、
必要な知識を伝え、いろいろなものの見方や
考え方があることを、示してあげることです。

それができるような存在になるために、
まず大人が成長しなければ、と思います。
私達が未熟であったことで、皆さんに
とても酷い仕打ちをしてきてしまった。
その事実と向き合い、
どうすれば自分達は大人になれるのか、
これからしっかりと考え続けていきたいと
思います。

「自立とは、依存先を増やすこと」

タイトルは、熊谷晋一郎さんという方の
言葉からの引用です。

自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと | 東京都人権啓発センター

自立は依存の反対語と思われているけれど、
実際は何にも依存していない人なんていなくて
むしろそれが沢山あるがゆえに
一つ一つを意識しなくても済んでいる状態が、
つまり自立であると。

それを受けて、先日自分の中で考えたことを
図にまとめてみました。
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人は、生まれたばかりの時点では何もできず
目の前の養育者(大抵の場合は親)に
全てを任せている状態です。
つまりその時、依存先は一つだけと言えます。
それがやがて成長するに従って
実際に自分でできることが増えるだけでなく、
周りの世界の広さも見えるようになってきて
「こんな時はどこに頼ったらいいのか」
という選択肢がどんどん増えていきます。
そうやって依存先を増やしていって、
どんな事態でも困ることなく解決できる
状態になることが、つまり自立なのだと。

上の記事の中で熊谷さんは障害者のこととして
話していらっしゃいましたが、
子どもが成長して自立していく過程にも
同じことが当てはまるのではないかと
考えたのでした。

十分に依存先の数が増やせている場合、
一つ一つの依存先とのつながりは
さほど強いものにはなりません。
「こちらがダメならこちらで」という状態を
作れるので、自立した人間というのは
それだけ個として自由であるとも言えます。
一方で依存先の選択肢が少ない状態では、
必然的につながりが濃くならざるを得ない。
そこから離れては生きていけないという
思いがあると、たとえその関係性が
あまりよいものでなかったとしても、
なかなか自分から断ち切るというのは
難しいことなのだろうと思います。

またそういった過剰に濃いつながりの中では
力関係によって「支配・被支配」の状態が
作られやすくなるだろうし、相手側もまた
そのつながりに依存しているような場合、
何とかその関係性を維持しようと考えるあまり
相手に選択肢を与えず、自立を妨げる方向に
働いてしまうことがあるのであろうと。
それがつまり、親による「過干渉」のような
パターンなのではないかと思います。

そして、先日の日記でも触れた「所属」のことも、
これと同じ話のような気がします。
少ない選択肢の中でつながりが濃くなると
どんな理不尽な扱いも受け入れざるを得ない、
何とかそこに属している状態を維持するために
自分自身を押し殺してでもしがみつく、
という状態が発生してしまうのだと思います。

ちなみに、依存先というのはたとえば
ストレスへの対処のような場合にも必要で、
その人が受けたストレスを解消しようとして
誰かに八つ当たりしてしまう、という時も
結局はその相手の存在に依存していると
言えるのではないかと思われます。
やたらと周りに対して攻撃的な子を見たら、
その子ども自身が受けているストレスが
周囲の誰かにぶつけないといられないほど
大きい状態になってしまっている、
という可能性をまずは考えた方がいいの
かもしれません。

そしてさらに、依存先には「自分自身」も
含まれるのだろうと考えました。
上のストレスへの対処のことで言えば、
他人にぶつけて処理するのではなく
自分の中で解消できる方法を身につけている
というのは、誰の力も借りることなく
生きていけるということで、恐らく一般的な
「自立」のイメージに近いものでしょう。
またその人自身に備わっている自己肯定感が、
外的要因に左右されないという理由で
大きな依存先の一つになる場合も
あるかもしれません。

ただ、それが「我慢強さ」や「根性」のような
ものになってしまった場合、それは決して
無尽蔵に湧いて出るものではないし、
むしろ命を削って無理矢理生み出すような
種類のものなので、そこに依存するのは
かなり注意が必要な気がします。
いずれにしても、自分自身を依存先にするのは
誰もが陥る可能性のある不測の事態
(つまりは体や心の不調など)
に対処ができなくなるので、やはり他にも
たくさん選択肢を用意できた中の一つくらいに
とどめておくのが良いのだろうと思われます。

長々と書いてきましたが、
私達が子どもを育てていく上で
もし何かゴールがあるとするならば、
それはつまり子どもが自立すること、
それを身近な存在としてサポートすることに
あるのだろうと思います。
もちろん本人が依存先をたくさん見つけだして
安定した状態を作れるのが一番ですが、
そのためのヒントを提供したり、彼らがそれを
見つけやすいように道筋を示すことなどは
先輩として手を貸してあげられることのような
気がします。

ただでさえ子どもたちは、はじめのうち
ごく狭い世界しか知りません。
そんな彼らが家にも学校にも幼稚園にも
安心できる居場所がないとか、
逃げ場のないまま今の関係にすがるしかない
というような状況を作らせないように、私達は
気を配るべきなのではないかと思っています。

もちろんそれは、親だけが頑張って
できるようなことでもありません。
むしろそれより外側から差し伸べられる手、
つまりは社会全体が子どもの依存先を
増やしてあげて、自立を促してあげるような
働きかけこそが必要なのだろうと思います。

壁越しの運動会

この週末、きなこの通う幼稚園では
運動会がありました。
我が家は4人で揃って見に行きました。
自転車に乗って、門の前まで行って、
5分だけ遠巻きに眺めて、帰りました。
それくらいだったらできそうだという、
きなこ自身の意志でした。

観客席の人垣の向こうに見え隠れする
クラスメイトや先生達の姿を見ながら、
「所属する」っていうのは何なんだろな
みたいなことを考えていました。
その園の生徒になった時点で、
そこのルールに従って、
先生の言うことを聞いて、
行事には必ず参加することになる。
強制ではないと言っても、やっぱり何だか
そうせざるを得ないような圧力の中に
取り込まれる。
その集団に属していない立場から見れば
何でそんなことを?というようなことでも、
中にいる限りは当たり前のものとして
受け入れさせられるような状態が
あるわけです。

それは全て、「そこに所属する」ということと
引き替えに起こっている。
もちろん何かに属することで得られるものは
たくさんあります。
実際に受けられる利益もあるだろうし、
それ以外にも目に見えない部分も含めて
安心感だったり、ステータスだったり、
色々あるのはわかります。
でもそれってほんとに釣り合ってる?とも
感じるわけです。

何かに属して、そこのルールに従って、
やれと言われたことをやっているのは
ある意味とても楽なことです。
そうじゃない道を選ぶということは
誰も入っていってない場所に分け入って
自ら道を作っていくようなものだから、
それ相応に大変なことも多いです。
孤独感も相当なものだと思います。

でもだからと言って、属することと引き替えに
どんな理不尽にも耐えなきゃいけないのか?
ということだって当然あるわけで、
あるいはきなこもそこに納得できないものを
感じたからこそ、今こうやって拒否しているの
かもしれないな、とも思っているわけです。

だとしたら、よくぞこの段階でそこに気づいて
言ってくれたとも思うし、この先も本人が
納得できない気持ちを持ったまんまで
わだかまりとして残っていけば、きっとどこか
歪みとなって出てくるような気もするので、
今のうちにこの問題にぶつかったことは
良かったのかもしれないなと思えてきました。

運動会が終わったことで、次はじゃあ
この先どうするのかの話を考えていかなきゃ
いけないとは思うのですが、やっぱり本人が
自分の中で気持ちの整理がつかないうちに
何かを強制することだけは避けたいなという
気持ちに、改めてなっています。

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全然触れられてないけれど、
あんこは毎日ずっと元気です。
元気すぎて手に負えないくらい元気です。

「育てられ方」の連鎖を止めるために

この週末、とある勉強会に参加してきました。
子どもの事件や自立支援に積極的に取り組む
弁護士の方を講師に呼んで、
若い人たちが直面している様々な問題や
それに対して大人は何ができるのかを
考えよう、という趣旨です。

実際に、親子関係が断絶してしまったり
居場所を失ってしまった少年の事例などを
聞きながら、彼らにどんな支援の手を
差し伸べることができるかを学ぶ内容でした。

その中で、日本全国に電話での相談窓口や
緊急避難先としてのシェルターがあり、
将来に向けての自立支援の為の施設があり、
それらは全て弁護士の皆さんが
自らお金を出し合って運営しているのだと
いうことを知りました。

そういったものの存在が、果たしてどれほど
今まさに困っている子ども達に知られているか
という課題もありますが、それ以前に
こういうものが国としての取り組みではない
ということに、毎度のことながら
激しくがっかりさせられました。
(もちろん「児童相談所」というものは
ありますが、あちらは全く手が足りておらず
支援が行き届いているとは到底言えない、
というのはよく聞く話です。)
子育て支援のみならず、危機に直面していたり
そうでなくても十分に安心して暮らすことが
できていない子ども達を、国として支える
仕組みが持てていないことに、大変情けなく
申し訳ない気持ちになりました。

また、今回事例として聞いたのは特に深刻な
例だったと思いますが、濃淡の差はあれ
きちんと人として尊重されているとは
言い難い状態にいる子どもというのは
それこそ数限りなくいると思われるので、
そう考えるともちろんシェルターの存在や
こういった弁護士さん達の取り組みは
本当に重要だし、心からありがとうございます
という気持ちになるのですが、
そうやって浮かび上がってくる深刻なケースに
一つ一つ対処していくだけでは、根本的な
解決にはならないんだろうなとも思います。

全ての子ども達が、人として大切に扱われ、
きちんと自分の居場所が持てて、
日々の暮らしを安心して送ることができ、
自分の生きたいように人生を選んでいける
ようになるためには、
まず最も身近な存在である親のことを
どうするか考えなきゃいけないし、
さらにそれを取り巻く社会全体が
どうやってそれを成し遂げるかを
考えなきゃいけないんだろうと思います。

勉強会の中で、「子どもに人権なんて
とんでもない!」などと言ってくる大人が
いるという話がありました。
正直それは極端な意見でも何でもなくて、
濃い薄いの差はあれ私達の中に何らかの形で
しみわたっている考えなのではないかと
思うのです。
「子どもは大人の言うことを聞くもんだ」
くらいの表現になれば、恐らく否定する人は
そんなに多くないんじゃないでしょうか。

一体私達が、どうしてそういう価値観を
持ってしまったかと言ったら、それは結局
上の世代から「そう育てられたから」でしか
ないんだろうと思います。
そしてさらに、その上の世代がどうして
そういう育て方を私達にしたかと言えば、
その人達もやっぱりその上の世代によって
「そう育てられた」から、
彼らはそのやり方しか分からなかったから、
そうしたのだろうと思うのです。

それはある意味仕方のないことではあるし、
むしろどうやってその「育てられ方の連鎖」を
止められるかを、これから私達は考えるべき
なのだろうと思います。
というより、今まさにこうやって子育てに
取り組む現場にいる私達には、それができる
とても大きな可能性を与えられていると
考えることもできると思います。

課題は、どうやって私達一人一人がその
気づきを得るか、ということだと思います。
自分自身の体験として一つのヒントは、
以前も紹介した『子育てハッピーアドバイス
という本に出てくる、
自分の受けた子育てを振り返る」という
取り組みです。
自分が子どもの頃、親や周囲の子どもから
されてイヤだったことを、ちゃんと
「あれはイヤだった」と認めること。
無理矢理「あれは必要なことだった」とか
「あの苦しさがあったから今がある」などと
今の自分を正当化するのに使わないで、
イヤだったことをイヤだったと
素直に受け止めること。

それができれば、それを子ども達にしない
というだけでも随分変わるような気がします。
もちろん全くしないようにするのは無理でも、
「これが正しいことなんだ」と思っているのと
「あんなことされてイヤだったな…」と
自覚できているのでは、きっと子どもに向かう
姿勢として必ず違いが出てくると思います。

そしてさらに、それは必ずしも子育て中の
親だけの話ではないと思うのです。
いま生きている全ての大人達が、
子どもの頃されてイヤだったことを
きちんとイヤだったと認められれば、
そしてそれをわざわざ次の世代に同じ思いを
させなくてもいいじゃないかと思えれば、
社会全体がそういう方向に向かうだろうし、
子どもを育てる責任を負っている親たちの
気持ちは今よりはるかに楽になるはずです。

自分達の過去と向き合うのには、
それ相応の難しさがあるとは思います。
自分の過去を美化せず、否定しなければ
ならないとすると、これまでの自分自身の
やってきたこと言ってきたことが全て
自責の念として襲いかかってくる可能性が
あるからです。

それでも、これから先ずっと
そのことに薄々気づいていながら
見て見ぬ振りをして生きていくくらいなら、
どこかで自分の過去と向き合ってしまい、
そこから再出発した方がはるかに気持ちは
楽になります。
それは、自分自身の体験として
言えることでもあります。

これからの子ども達のためにも、
そして私達自身がこれからの人生を
人として尊重されて生きていけるように
なるためにも、一人一人が自分自身に
向き合えるようになることを祈っています。
またそのためのヒントを、これからも
探っていこうと思ってます。


今回の勉強会で色々な話を聞いたことで、
またその場で自分なりに言葉にしたことで
これまで考えていたいろんなことを
まとめるきっかけになりました。
その機会を与えてくださった方々に
改めて感謝するとともに、
これからもっともっと考えていこうと
思った今週の出来事でした。

モアナの「夢」と「使命」の話

昨日、家族に自由時間をもらって
映画『モアナと伝説の海』の日本語字幕版
『Moana』を観てきました。

その感想はTwitterにも書いたのですが、
まだ書き足りないのでこの場でもうちょっと
続けてみたいと思います。
なお今回もネタバレのことは一切気にせず
好き勝手書きますので、ご了承ください。

昨日は一連のツイートの中で、以下のように
書きました。



このお話では、主人公のモアナが
とにかく一人でずっと頑張ります。
もちろんマウイという心強い相棒がいますが、
彼を味方にし一緒についてこさせるのも含めて
とにかくモアナが頑張ります。

「自分一人でもやればできる」ということを
意図的に描いたのかなとは思ったのですが、
ただ観ている側としてはあまりに援軍もなく
彼女が一人でがんばり続けることに、
ちょっと酷な感じを受けてしまったのでした。
というか、彼女の「モチベーション」の部分に
観ていてずっと疑問があったというか。

村長の娘として、成長しながら自分の役割に
自覚を持ち始めていった彼女ですが、
(そもそもそこが世襲なのかよ…という点は
 時代背景ということで置いておくとして)
心の底では常に外海への憧れというものが
あったはずですし、果たしてどこまで
その役割にモチベーションを持っていたかは
わかりませんでした。
そしておばあさんから全ての話を聞き
テ・フィティの心を託された時も、言わば
珊瑚礁の先に行けるという「夢」と、
村を危機から救うという「使命」が
両方いっぺんに来てしまったわけで、
そこで夢の方を優先させることだって、
究極を言ってしまえば村のことなんか放って
好き勝手に船で繰り出すことだって
できたわけです。

もちろんそれをさせなかったのは
両親をはじめ、村の人々への思いが
あったからだろうとは思うのですが、
そこまでの間に深く心を通わせる描写が
あったのはおばあさんとだけだったので、
モアナ自身の思いをはかりかねたというか。
ひょっとしたら、使命感だけでずっと
動いているんじゃなかろうかと。

もしもあの冒頭パートの間で、
もう一人だけでもモアナの気持ちに
寄り添ってあげられる人がいて、その人が
後々どこかで間接的にでもモアナを
サポートするような描写があったなら、
彼女の孤軍奮闘ぶりも抑えられたし
あそこまで頑張るモチベーションも
感じられたのかな、と思いました。

特にきつかったのはもちろん演出として
用意されていた、マウイと喧嘩別れして
テ・フィティの心を捨てるシーンですが、
あそこで彼女の気持ちを支えてくれるのは
亡くなったおばあさんや先祖の人達。
といってもあのシーンも実際は
モアナの自問自答でしょうから、
結局あそこで立ち直るのも彼女一人の
頑張りだけなんですよね。

さらに、おばあさんは「しんどかったら
やめたっていいんだよ」というような
声かけをするわけですが、その選択は結局
村の危機という結果に直結するわけで、
もしも彼女がそこまで使命感によって
動かされてきていたのだとしたら、
ある意味選択の余地がないというか
「結局行くしかねぇじゃんか!」状態に
なっていたのじゃないかと思うのです。

だからあそこはあくまで彼女の自由な
意志であるという面が強調されるべきで、
例えばですが前段階で親か誰かに
「あの子は一度決めたら曲げないからな」
と言わせておくとか、
あるいはあの場面で本人から
「ここで諦めるなんて絶対イヤだ」
と言わせるくらいの、力強い描写が
あったら良かったのかなと思いました。
(その辺は単純に台詞の聞き逃しが
 あったらすみません…)

ディズニープリンセスの一連の作品には、
大きなテーマとして「夢は必ず叶う」という
ものがあると思うのですが、
モアナにとっての叶えたい夢とは何なのか、
村を救うことがただ彼女に背負わせた重荷に
なっていなかったかどうかについては、
今回一度観た限りでは正直見極めが
つかなかったので、そこはいずれブルーレイで
見直してみたいと思っています。

個人的にそこの部分がすごく気になったのは、
現実の社会でも「子ども自身がそう言って
るんだから…」と、さも子どもの自由意志を
尊重するフリをしながら、実際には
選択肢を奪ってそう言わざるを得ないように
大人が持っていってるケースがあるからで、
本当に彼らが何の制約もなく
その選択をしたのかについては大人の側が
相当慎重にならなければならないと、
常々思っているからだと思います。

その辺りは親目線でかなり偏った見方を
している可能性があるので、あくまでこれは
個人的に今の時点の自分なりの感想として
まとめておきたかったので書きましたが、
実際には観る人それぞれがそれぞれの視点で
この映画を楽しんでもらえたらなと思います。

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写真は本文とは全く関係なく、
今日きなこに作らされたカップケーキ。
この3連休もいろいろ大変でしたが、
映画を観に行かせてくれた妻に感謝です。

「すみません実は分かりません」

平和です。

何しろこの季節にして、現状家族の誰も
風邪を引いていません。
もちろんあんこは何か不満なことがあれば
すぐ全力でブチ切れて泣き叫ぶし、
きなこのわがままっぷりにはほとんど一日中
イライラさせられているしで、冬休みに入って
たった3日で既に朽ち果てそうですが、
去年の大変さのことを思えば
やっぱり今年の年越しは極めて平和です。

さらに今日は気候も大変良かったので、
大掃除も大変はかどりました。
(夕方疲れすぎてダウンしましたが…)
明日からの後半戦も、こんな感じで
平和だといいなと願いつつ。

さて、今日は今年一年の振り返りでも
しようかと思いましたが、思い返しても
しんどかった記憶しか出てきそうにないのと、
どうせ数時間後にはまたいつも通りに
子どもの世話が始まるし…と思うと
そんな気分にもなれないので、
ちょっと最近思っていることなんかを。

若い頃、よく「自分は張り子のようだ」
なんてことを考えていました。
転職を繰り返し、専門性も何も持ってない
世界に飛び込むことばかりだったので、
基礎となるものがないまま外側だけを
固めているような、
中身が空っぽのまま殻だけ厚くしているような
感覚を常に感じていたような気がします。

そういう自覚があると(なくても?)、
「ここに踏み込むとマズいな」という部分を
上手に避けようとする技術ばかりが
身に付いていきますね。
わからないことがバレないように、
自信がないことを悟られないように、
ハッタリばかりが上手くなるのです。

本当は早い段階で
「すみません実は分かりません」
「ごめんなさい本当はできないんです」
ということが言えればいいんですけど、
それを言えるにはまたそんな自分に自信が
必要だったりして、これがなかなか難しい。
でも、そうやってごまかして避けた結果、
結局問題はそのままそこに残るのです。
だって解決してないんだから。
この悪循環は、未だに自分の中にいろんな所で
わだかまったままになっているので、
この先もいつどこで噴出するかわかりません。

実は、今の日本の「問題の解決できなさ」も
これと同じような形で起こっているんじゃ
ないかと思っていて、
「実は分かりません」「本当はできません」を
言いだせないばっかりに、
結果としてその問題から目を背けるか、
問題そのものをなかったことにしてしまうか
という悪循環に陥っているような気がします。
そういう、できない自分達と向き合わない限り
今後も問題が解決する方向には行かないんじゃ
ないかと勘ぐっていたりするわけです。

そしてさらに、子育てのことに関しても
全く同じことが起こり得ると考えていて、
自分の子どもが生まれた時点で
子育ての専門家だなんて人は殆どいません。
まして一人一人対応が変わるものであることを
考えると、「この子の子育て」に関して
最初から私はプロであるなんて言える人は
皆無です。

誰も最初は完全なる初心者なのが、子育て。
なのにそのことを自分から言えない環境が
あるんじゃなかろうか。
母親には「できて当たり前」という
社会からの謎なプレッシャーが、
父親にも「知らないと認めることは恥」という
自分達で作り上げたこれまた謎な価値観が
それぞれ悪い方に作用して、
一方では思ったように上手くできないという
現実によって本人を大いに苦しめたり、
一方ではそもそも「育児という問題」から
目を背けさせる力になってしまっている。

だから、まず我々は子育てに関して
「分かりません」「できません」が
普通に言える状態にしなきゃいけない。
もともと答えもなければ解決法もないのが
子育てという世界です。
だからそれをやる人間は不安でいっぱいだし、
何年取り組んでも悩むし、毎日だって迷うし、
あわよくば逃げ出したくもなるし、
その重すぎる責任を一人で受け持つなんて
無理なものなんだ。
そういう認識をみんなが持てるように
しなきゃいけないんじゃないか。

「子育て」という問題自体に解決方法はないかもしれないけれど、
「子育て環境」という問題ならば、
ちゃんと取り組めばちゃんと解決できるもので
あると思います。

みんなが少しでもラクに、
楽しく子ども育てていける、
そんな世の中になることを祈って。

良いお年を。